七十パーセントの悪意、あるいは
3.
「バリアン世界って、海あるのかな」
遊馬のそれは尋ねるというよりも、独り言に近い台詞だった。
彼の目の前に広がるのは、紺碧に染まった人間世界の海。
真月と遊馬がいるのは、アリトがバリアンズ・スフィアキューブを展開した地点からさほど遠くない場所。ハートランドシティの湾岸倉庫だった。
バリアンズ・ガーディアンとしての「正体」を遊馬に明かしてから、真月は遊馬と二人で行動する場面が多くなった。ずっと前からいるナンバーズクラブの面々や、アストラルさえ差し置いて。この場所にいるのも、ガーディアンの捜査の一環だ。もっとも、探しても目ぼしい証拠は出ないことを真月は知っている。
倉庫の壁にもたれ掛け、腕組みをした格好で、真月は海を眺める遊馬を見ていた。
「――何故、そのようなことを?」
訊けば、遊馬は沿岸から離れて真月の元にぱたぱた駆け寄って来た。
「ずっと前に、海と山どっちがいいかって聞いたことがあっただろ? アリト、あの時海は嫌だったみたいだから」
「遊馬巡査」
演技とはいえ現在の真月と遊馬は上司と部下の間柄だ。言外に礼儀について咎めてやれば、遊馬は慌ててかしこまってみせた。
「し、失礼しました、真月警部! ――で、あるんですか、海」
「ああ」
言ってから、しまった、と真月は後悔した。案の定、遊馬は期待した面持ちで彼の方を見ている。
「アリトの反応については心当たりがあるな。我々バリアンズ・ガーディアンが入手した情報によるとこうだ」
バリアンズ・ガーディアンの手帳をポケットからもったいぶって取り出し、ぺらぺらとページをめくった先の文面をしかめつらしく読み上げる。
「……アリト。バリアン世界で指名手配中の極悪人。……幼少のころ、バリアンの海で溺れて以来、すっかり海嫌いになる」
バリアン文字で書かれている文面には、目の前の人物への罵詈雑言がこれでもかとばかりに書き連ねてある。バリアン語を理解できる者が読めば、本人でなくとも憤慨すること請け合いだ。
「へえ、そうだったんですか。でも、あいつ普通にプールの中に入ってたような……」
「遊馬巡査。悪のバリアンは、我々がこうして悠長に時を過ごしている間にも日々進化しているのだ。古い情報が簡単に通用するならこの世に警察はいらない」
「はっ、申し訳ございません!」
「分かっているならまあいい」
見え見えの嘘をあっさり信じた遊馬があまりにもおかしくて、真月の唇から笑みが小さく吹き出す。何を勘違いしたのか、つられて遊馬も笑顔になった。
「今抱えている事件が解決したら、私は長い休暇に入る。そうしたら……」
「そうしたら?」
「君も一緒にバリアン世界に連れて行ってやってもいい」
「え、そんなことできるんですか?」
「君の多大な功績を称えるのだ、それくらいしても罰は当たらないだろう。遊馬。私は君に見せてやりたいんだ、バリアン世界の海を」
「わあ、ありがとうございます、真月警部!」
何故、真実を話した?
――近い将来始末する人間だから。
何故、真実を話さなかった?
――始末する人間とはいえ、余計な情報を与えたくなかったから。
言い訳すればするほど、互いの言い分が食い違う。
これだから心というものは信用できない。己のそれですら己自身を簡単に裏切るのだ。ましてや、身一つ隔てた他人の心など。
てめえはバカだよアリト、と真月は内心毒づいた。
あの時生徒たちを洗脳して遊馬を襲わせたギラグの作戦に乗っていれば。そうでなくとも、邪魔をしなければそれでよかったのだ。真月だって、それが分かっていたからこそ洗脳された振りをして協力したというのに。
真月やギラグの方がバリアンとして正しい行動だ。意中の相手と戦いたいがために自ら傷つくことはない。血を流す必要はない。
どれだけ熱くなったところで、この身体はまがい物だ。異形の心臓も、巡る真っ赤な血液も、バリアン態のエネルギーをこの世界の元素にそれっぽく置き換えたに過ぎない。
どれだけ涙しても。どれだけ傷ついても。どれだけ血まみれになっても。この身体に含まれているのは紛れもなく悪意であるはずなのだ。
作品名:七十パーセントの悪意、あるいは 作家名:うるら