Be for you
「一概に『したくなる』とは言えないし、どこで満足するかなんてそんなの人それぞれだろ。
まぁ私はキスだけでなんか止まれないし、したらした分だけもっと欲しくなって際限なく求めてしまうけれど、私とお前が同じだからと言って相手も同じとは限らないだろうさ」
「そうだよな…」
冷静になった三郎が話す静かな声音は耳に心地よく響いた。
恐らくは自分の経験則も交え、客観的な視点から俺の疑問に答えようとしてくれている三郎の言葉の一つ一つが突っ伏した俺の中に染み入るように入ってくる。
こうして素直に聞けているのは、自分でも頭の中では分かっているからだ。
狭まった視界の中で学校帰りの学生で混み出してきた店内を眺めていると、騒々しい賑わいを見せている周囲の空間からこの席だけが見えない壁で区切られてしまっているような錯覚を覚えた。
「それにお前がそうやって腐ってるのは、やりたいのにお預け喰らってやらせて貰えなかったからじゃないんだろ。
…言ってやろうか?」
ざわめきの中に身を隠し、潜めた声を漏らす口角は緩やかに弧を描く。
重たい頭を緩慢な動作で持ち上げた俺は、雑音の多い店内では見向きもされないBGMが、CMを挟みながらすでにリピートをし始めていた事に今更気づいた。
「自分の事を押し付けるだけなら赤ん坊でも出来るさ。喚いて怒鳴って向こうの言葉なんか聞かなきゃいい。
けれど、そうして手にしたところでそれが本当に自分の欲しかったものかどうか、そこだけは見誤るなよ?」
そう言って、三郎は言葉を結んだ。
相対している俺の上に、何か別のものを重ね合わせて見ているような目をした友人の忠告で綴られた言葉は、俺には酷く重く感じられた。
口を噤んだ俺の脳裏に浮かぶ思考は酷くゴチャゴチャと雑然としているものだから、絡み合う結び目を紐解くにも一つ一つ慎重に手を掛けて整理しなくてはならなかったけれど。
これ以上にはない程に考えに考えて、悩み抜いた挙句の三十分後。
ようやく結論を築き上げた俺は、少しだけ間を置いてからそれを口にした。
俺が話し出すまではあえて急かしもせずに只管黙っていてくれた三郎はそれを聞くと、こちらが思案に耽っている間にメールを打っていたらしい携帯をわざわざ一旦折り畳み。
そうしてただ一言、「そうか」とだけ返して口を噤んでしまった。
パラ…パラ…、一枚一枚静かにページを捲る音だけが聞こえる部屋。
息を潜める様な静寂に満ちた室内ではそんな微かな音すら浮き出しになってしまうためか、どこか遠慮がちに聞こえる。
いつもと違う不自然な静けさの中、控えめの音量で抑えながら文章を辿る指と巡る視線で粛々とノートは読み進められていく。
学校での授業内容との摺り合せにこうして俺のノートを確認するのは今までにも何度かあった。
板書の内容が抜けていたり、一部ミミズののたくった様な字になっていたりするとその箇所は授業中に居眠りしていた事が丸分かりなので、その事に対する苦言めいた軽い叱責も交えながら二人で見返していたものだけれども、今日に限ってはそんな軽口すら出てこない。
いつもよりも静かな俺の様子に違和感を抱いてか、先生はノートの内容確認の方に気を逸らしつつも、時折あらぬ方へと泳ぐ視線には迷いが滲み微妙に居心地悪そうな素振りを覗かせている。
何かを言いかけては、その都度言葉が形になる前に下唇を軽く噛んで口を噤んでしまうというのを何度繰り返していただろうか。
間近で見ていたからこそ気づいたその仕草は、唇を合わせた時のその柔らかさを思い起こさずにはいられないけれど、今の俺の頭にはそれ以上に思考の大部分を占めている事柄があった。
「先生…」
俺の呼び声に即座に反応した肩が小さく動き、先生の手がノートのページを捲るのを止めた。
振り向くべきかどうかを一瞬躊躇い逡巡する先生の動向を見守る俺の無言の視線を受け、一呼吸おいてからゆっくりと先生の首がこちらに廻らされる。
話すタイミングを掴みあぐねていた俺も先生の視線がこちらを向いたのを確認してから、ようやくこれで後戻りは出来ないと腹が据わった。
意を決して、俺が話し出すのを待っている先生の視線と正面から向き合う。
深く息を吸い、先走る心音を僅かなりとも整えて、俺は口を開けた。
「先生。俺、先生の事が好きだよ」
なぜ今更そんな事を言うのかと、俺の意図が掴めない戸惑いに瞳が一瞬翳ったが、いつかの告白をなぞる様にもう一度口にした想いはまっすぐこちらを見上げている視線に絡め取られ、告げられた言葉を受けて正面に見える黒曜の瞳は小さく頷きを返した。
「先生のこと好きになって、先生と一緒にいれる授業が楽しみになったけどさ…でも、先生は?
先生は俺の事好きだって、思ってくれてる…の、か?」
告白して三ヶ月。
週に二回の授業が待ち遠しくてたまらなくて、あっという間に過ぎてしまう二人の時間を一分一秒と惜しんだ俺には短いくらいの期間だったけれど。
先生にとってはどうだったんだろうか?
思いがけず受け入れてもらえたことにばかり気が取られていたけれど、思い返せばあの時「好き」の言葉に返されたのが同意の言葉ではなかったことが、今になって心中に影を落とす。
胸に抱いていた靄のようにあやふやな不安を形にした三郎の言葉が脳裏に甦った。
ところどころもつれる舌は一言ずつ言うのがやっとで、みっともなさに膝の上で握り締めていた拳にはさらに力が入る。
「ご褒美だなんてやりだしたのも、俺の成績上げる為の手段だって…全部割り切って、俺と付き合ってるフリしてた?」
友の台詞をなぞり自分で口に出した言葉は、区切った一言一言それぞれが鋭い刃を剥いて胸に突き刺さる。
『恋人』だと、そう思っていたのが自分だけだったと、疑惑を口にする事で自分でも認めてしまうことになりはしないかという恐れから今まで目を背けていた。
けれど、それをただの不安や思い過ごしで済ませられなくなってしまった今では、先生の真意から目を逸らし続けている方が辛い。
「違うっ!」
身を切り刻まれる様な面持ちで俺が問いただした途端、反射的に否定の声が上がった。
嘘で取り繕う隙すら無いほどの速さで即座に返された声音は真剣そのものだと、そう思ったのはまだほんの一縷の望みにでも縋りたがる俺の未練が見せた錯覚でなければいいのにと咄嗟に思った俺に、震える唇が続けて言葉を紡ぐ。
「違う!フリだなんて、そんなつもりないっ!」
追い縋るようにして詰め寄るなり固く目を瞑って頭を左右に振り、重ねて否定した。
荒げた声は今まで見たことがないくらい落ち着きを失っていて、初めて見た先生の激しい感情の発露に直面した俺は思わず目を剥いてしまう。
見上げてくる視線と頼りなげに揺らぐ声に眉間に寄せた眉が額に刻む皺と相俟って、まるで泣き出しそうになるのを堪えている子供みたいに見えた。
戦慄く口元が、強められたシャツを握る手の力が、俺の脚をその場に縫い止めていく。
作品名:Be for you 作家名:いつき りゅう