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たままはなま
たままはなま
novelistID. 47362
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もう一つの、意識に浮上するかどうかの塵ほどの小さな望みを成就させよう。
私の大事な主の為に。

ゆっくりとした歩調の主に追いついて、声を掛けた。
「坊ちゃん。」
振り向いた主は、満足そうな笑みを湛えている。
「やっと正気に戻ったのか?」
この人は、私が彼を呼ぶ声だけで、変化を読み取ってみせた。
心臓が、引き絞られる。
眉尻を下げて苦笑した私。
「そのようです、坊ちゃん。」
主は、フンと鼻で笑う。
「主を放っておいたまま、随分と長い不在だったな。」
からかう笑顔を浮かべるのも、久しぶりに見た気がした。
膝を折り、主の前に跪く。
心持ち顎先を上げるようにして私を見下ろす主の強い瞳は、碧。
口角を持ち上げて、ニヤリと笑っている。
「坊ちゃん、長い間お待たせしてしまい、申し訳ございませんでした。
やっと、本当にお傍に戻って参りました。」
頭を垂れ、胸に恭しく手を当てて、帰還の報告を奏上する。
「自分が躾けた犬には責任を持たないとな。」
ぶっきらぼうに言う主だが、機嫌の良さそうな事など、今の私には苦も無く分かる。
一歩、私に近付いた主が、私の頭をその胸に抱え込んだ。
言葉は無いが、それで過不足なく充分だった。
小さな主の狭い腕の中は、とてつもなく広い。
悪魔の私でさえも受け止めてしまえるのだから。

薔薇の芳醇な香りに辺りが満たされていても、主の香りに酔う。
ここに、主が確かにいる。
細い腕の、抱き締めてくる強さ。
私は、主の胸に頭を抱え込まれたまま、主の背に腕を回した。
許しを請う弱々しさだったかもしれないし、
長く離れていた時間を埋めようとする荒々しさだったかもしれない。

私の腕が主を抱き留めた時、主の声が、私の名を呼んだ。
「よく帰って来たな、セバスチャン。」
囁くような主の声が、甘い。
更に、これ以上に、私はこの人に魅せられて、どうすればいいのだろう。
離れられない、それ以上は、もう融け合うしかないではないか。
「坊ちゃん、ずっと、お傍におります。」
主の頬が、私の頭に重ねられる。
「嘘を吐くことは許さないと、あれだけ何度も言っておいたのに。
まったく、とんだ駄犬を拾ったものだ。
いいか、セバスチャン、2度目は無いからな。
ずっと、僕が生きてある限り、僕の傍を離れる事は許さない。どんな事があっても。」
主は、自分の言葉が、永遠の誓いともとれるものだと気が付いていないのか。
私をドキリとさせる事を、こんな風にするりと言ってのけたりして。
では、気付かせてみようか。
「坊ちゃん、私はずっと貴方のお傍におりますよ。
どんな時にも、どんな事があっても。
貴方が、健やかなる時も、病める時も、ずっとお傍に。」
声に笑いを含めずに言うのは、少々難しかった。
私は、主が、おかしな言い回しをするなと怒る声を待つ。
眉間に皺を寄せて、目を三角にする、ふくれ面の主を思い浮かべて。

胸に抱いていた私の頭を離した主は、けれど、不機嫌な顔ではなかった。
「可笑しなやつだな、何て顔をしているんだ。」
そう言う主の顔は、笑っていた。
切なくなるような、柔らかな微笑みを浮かべているのだ。
「・・坊ちゃん・・・。」
くすりと笑ったのは、私ではなく、坊ちゃんだった。
「こんな時に鳩が豆鉄砲をくらったような顔をするとは、デリカシーの無いヤツだ。
こういう時の作法も知らないのか?」
主は、真っ直ぐに私の瞳を見詰めてくる。
「誓いの言葉の後、どうするのかも教えなければならないようなダメ犬、
僕以外の誰が好き好んで拾うものか。」
胸に当てていた手を、主の、柔らかな曲線を描く頬に伸ばす。
いつも、私の予想を裏切って見せた主は、またしても、私の予想の外だった。
そうして、私の心を鷲掴みにする。
「貴方のような方の執事は、私以外に勤まりはしませんよ。」
跪いた体制から伸び上がるようにして、主の唇に近付いていく。
碧い左眼、転生してからは赤味を強くしてワインレッドに染まった契約の右眼。
美しく澄んだ、主の瞳から目を離さない。
近付くほどに、主の瞳は赤味を増して、今や、本性の赤く輝く悪魔の瞳になった。
あの碧い宝石のように、赤い燐光を放つ瞳。
私が、目を逸らしつづけてきたもの。

本来の道から、ある日突然に、考えてもみなかった道へと連れ去られて、
命を終える望みさえも絶たれてしまった主。
いっそ、あのままゆらゆらと眠りの揺り籠の中にいさせれば、
主は安寧だったろうかと煩悶する日々。
無理矢理に引き戻したばかりにと、どんなに悔やんでも悔やみきれずに、
自分の思索にばかり気を取られ、主がどう思っているのか、
どう感じ、どうする気でいるのかを、考慮に入れていなかったのだった。
いつまでも過去に拘っていたのは、私。
主は、悪魔としての命を生きる事を、とうに受け入れていたのだ。
永遠とさして違わない長さの生、
飽きるほどの時間を、ずっと、私の生とリンクし続ける覚悟をして。
彼は、与えられたのではなく、選び取ったのだ。
何処へでも連れて行けとの言葉は、そういう事だったのに。
人間でも、悪魔でも、行き着く先は同じ。
その行き着く先まで、ずっと、傍らにあり続けていくという覚悟。
それを理解できなかった愚かな執事は、心を不在にした。
こんな私の帰還を、どれ程長く待っていてくれただろう。
必ず戻って来ると、殆ど確信していたに違いないと思う。
そういう人なのだ、この人は。

妖しく輝く赤い瞳の主も、美しい。
唇が触れる寸前まで、私と主は見つめ合っていた。
柔らかい感触が、唇を満足させる。
触れて、離れて、また触れて。
次第に深まるキス、高まる熱、上がる息。
主に呼吸をさせる為に、少し唇を離す。
「・・はあっ・・・。誓いの・キス・・にしては・・・激しい・・な。」
荒い呼吸から紡がれる言葉は切れ切れで、艶めかしい。
見詰めてくる潤む瞳は、私を誘う。
このまま、ここで?それとも、屋敷に戻ってから?
私は不埒な考えを巡らせる。
「坊ちゃん・・。」
引き寄せられるように再度唇への接触を求めようとすれば、
主の指先が私の唇に留まる。
「儀式は、あくまでも儀式だ。けじめはつけなければな。」
悪戯な顔は、口角を上げて笑っている。
「イエス、マイ・ロード。」
胸に手を当て頭を垂れた私だが、立ち上がりざま主の体を掬い上げた。
「うわっ!」
私が主を落としたりするはずもないのだが、主は、急な体勢の変化に驚いて、
私の頸にしがみ付きながら声を上げる。
零れんばかりに見開いた目の子供っぽさが、私を笑顔にしてしまう。
「くすっ。そんなに驚かなくても、私が坊ちゃんを抱き上げるのは、
今に始まった事ではないでしょう?」
人間であった頃の主を、数えきれないくらいに抱き上げた。
囚われるのが得意な主を助け出す為、運動が嫌いで持久力のない主と共に逃走する為、
執務室や図書室で居眠りをしてしまった主を寝室へと運ぶ為。
「忘れた、そんな昔の事。」
私の胸に顔を隠す主のその言葉は、私が、この人を一人にしていた時間の長さを物語る。
傍近くにありながら、心を寄せていなかった時間。
いや、心を寄せていなかったのではなかったが、
少し遠くから見ていたのだ。
作品名:LINK 作家名:たままはなま