彗クロ 4
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彼女の足取りを辿ることは、思いのほか容易だった。今時分、余所者があふれかえるバザーでは、長年軒を連ねる露天商たちにとって、地元の人間の姿はかえって印象に残ったようだ。ほんの一目垣間見ただけだと前置きしつつも、当時の彼女の尋常ならざる様子を気にかける証言は少なくなかった。
その出自からは意外なことに、彼女は比較的安価な食品店の常連であるということがわかった。少し前にもその店に立ち寄り、店主と他愛ない世間話に興じている。
しかし別の客が訪ねてきた途端、態度を豹変させ、買い物をすることもなく蒼い顔で立ち去ったということだ。
当の店主によると、訪ねてきた客は若い男。とりたてて怪しいところもない、ごくごく印象の好い人物だったらしい。彼女とのやりとりまで克明に再現してみせた女店主の証言は、この客の詳細まで突っ込んで尋ねるにつれ、ひどく曖昧なものになった。人出の多さに記憶を流されたか、よほど印象の薄い人物だったのか、あるいはその両方か。
かろうじて引き出せた「旅慣れた様子だった」という言葉と、断片的な外見の情報を伝(つて)に、ルークは周辺の宿泊施設を片っ端から当たった。闘技大会を目玉に広く観光客を誘致するようになってから、王室認可の有無に関わらず、宿屋の数は以前より爆発的に増加している。折しも書き入れ時とあって、宿泊する意図のない――金にならない客に対する態度などぞんざいなもので、そうでなくてもそもそも忙しすぎて客の顔などいちいち覚えていられないという尤もな返答も多く、これは想像以上に骨の折れる作業だった。いっそあからさまに袖の下でも要求されたほうが精神的に楽だったかもしれないと思うほどだが、幸か不幸かそこまでの不届きは今のところ見受けられない。裏を返せば、有力な情報の在処にかすりもしていないということでもある。
いっかな成果の上がらない状況に嫌気が差してきた頃、まさかとは思いつつ立ち寄ったホテルで、意外な手応えがあった。
相手はランバルディア王室の覚えもめでたい最高級ホテル。さすが、一銭にもならない問い合わせであろうとおざなりにはせず、実に丁寧に応じてくれた。曰く、「お客様に関する情報は一切お答え致しかねます」。……なるほど、まさしくホテルマンの鑑というべき模範解答だ。
が、その対応はルークに言わせれば悪手だった。知らぬ存ぜぬで追い返せばいいものを、そこで「心当たりがあるのかもしれない」という可能性を残してしまったのが、相手の敗因である。
王族御用達とは、取りも直さずファブレ家の威光が通用することと同義である。駄目で元々、とルークがそのあたりのことをちらつかせると、応対していたフロントマンの模範的な笑顔もそのまま、ただ常時しゃんと伸ばされたその姿勢に、半瞬、接客のためのそれとは別種の緊張が走ったような気がした。逡巡と思しき間がしばし。台帳を取り出すこともなく無言で手元にペンを走らせると、メモ帳から切り離した紙片を、ぴかぴかに磨き込まれたカウンターに丁寧に滑らせて差し出してきた。唇をほとんど動かさずに「ただいまお出かけ中です」との補足も忘れない。ちなみにここまで一切の瑕疵もない完璧な営業スマイルである。……プロとは、実に恐れ入る。
目的のフロアで、挙動もどことなく上品な昇降機(エレベーター)から抜け出しつつ、ルークは半ば脅迫によって強奪したに等しい情報片を苦々しく見下ろした。紙面には、端正に並ぶ四つの数字。中層階の一室を示す部屋番号だ。
フロントの忠告を疑うつもりはない。ロビーで目的の人物の帰りを待つほうが効率的であることはわかっていた。とはいえ、万が一ということもあるし……道義的にかなり問題のある手段をとった手前、例のフロントマンと同じ空間にいるというだけでもいたたまれないのに、ましていつ現れるとも知れない、それも捜索中の旅人と同一人物かどうかも定かではない、見も知らぬ他人をただじっと待ち続けるという苦行に勤しむ余裕と忍耐力など、現在のルークは残念ながら持ち合わせていなかったのだ。
部屋の確認を済ませたら、もう一度フロントに話をつけて、別の宿を当たる作業に戻ろう。己の精神状態に理論を服従させながら、ルークは廊下を進んだ。
長大な廊下はわずかにカーブを描き、しかし構造自体は明快で、メモにある数字はすぐに見つかった。中央からわずかに奥まった、小部屋が立ち並ぶ区画だ。扉の間隔から、せいぜい二人部屋といったところか。一般的な観光客や懐に多少余裕のある旅商向けの、高級ホテルとしてはもっとも需要の高い宿泊形態だろう。
備え付けの呼び鈴を、しつこくならない程度に幾度か鳴らしてみたが、案の定応答はなかった。意識を澄ませ、注意深く室内に探りを入れても、物音どころか人の気配もしない。……端的に言えば、無駄足である。
これでますますフロントに顔を出しづらくなったのだと今さらに思い当たり、裏目裏目の自業自得にため息が漏れる。とはいえ、調査をあきらめるという選択肢はそれこそ今さらだった。
天井近い採光窓から注ぐ屈折した暖色は太陽の老いを感じさせたが、焦りはなかった。本音を言えば、真相への道のりは遠ければ遠いほど都合がいい。目的地にたどり着く必然も、真実を手にする必要すら、本当は存在していない。欲しいのは現実から目をそらす余暇であり、ルークがやっているのは往生際の悪い時間稼ぎ以外のなにものでもない。本当に恐ろしいのは、あっけなく手がかりが途切れてしまうこと――
「――……?」
とりあえずはエレベーターホールに戻ろうと踵を返した瞬間、視界が不確かに揺れた。眩暈……そして、ゆるやかに頭蓋をしめつけられるような、頭痛未満のノイズ。
予感めいた感覚に、自然、足が止まる。そしてそのまま、思いのほか長々と立ち尽くした。
ほんの一瞬の違和感でありながら、疲れのせいだと片づけることができない。じわじわと、上下の瞼が見開かれる。まさかという思いを、直感と、強烈な既視感とが、容赦なく裏切る。
長らく忘れていた。これは経験のある痛みだ。
短くはない葛藤の末に、ルークは認めざるを得なかった。ほんの一瞬、それもずいぶんと軽量化されてはいたが、かつて体感したそれと確かに同質のもの。人の都合などおかまいなしに、意識に他人が混ざり込んでくる感触。暴力的で、無遠慮で、無知で、浅慮で、傲慢で、理不尽きわまる――
意識の外で、チン、と軽やかな鈴の音が響いた。
ルークは弾かれたように顔を上げた。
正面。落ち着きなく揺らぐ視線の先には、三方向からの廊下を繋いで半円形に膨らんだエレベーターホールがある。そこには窓からの斜陽はほとんど届かず、しかし音素灯が点灯するにもまだほんの少し早い。そうしてわだかまるセピア色の薄暗がりに――誰かがいる。
小柄な人影だ。少年と言っていいだろう。高級ホテルに相応しい、幼いながらに仕立ての良い服装だった。エレベーターから降りたばかりらしいさまで、廊下の奥を覗き見るように、ルークに後頭部を向けている。何か、あるいは誰かを捜しているような、そんな様子に見えた。