彗クロ 4
4-9
地面に引っ張られる感覚が始まってようやく、鉄柵の籠の中、男は常時穏やかな相貌から、目には見えない緊張を解いた。順調に下降をこなす昇降機の床に、平素より重量を増した背負子を下ろすと、自然、安堵の吐息が落ちていく。
「……「敵いそうもありません」は、ちょっとうかつだったかな」
外套の内ポケットに手を入れながら、男はぼやいた。
あの言いぐさでは、「『彼』の探し人が追跡の手を拒んでいることを自分は知っている」と、暗にほのめかしてしまったようなものだ。幸い『彼』は別の物思いに気を取られて気づかなかったようだが……勘のいい人物だ、咄嗟の対応には存分に肝が冷えた。
他に手落ちはなかったか。指さし確認の要領でひとつひとつの言動を回顧し、脳内で手早く精査。この慣れ親しんだ作業の仕上げに、取り出した片眼鏡を装着する。手首に仕込んだ小さな鏡板に映して、左目の虹彩をもれなく隠せていることを確認してから、男、すなわちアゲイトは、ようやく床に置いた木箱の蓋に手をかけた。
背面板を注意深く上に引き抜き、中身をのぞき込んで……思わず、肩をこかした。
木箱の中で窮屈そうに手足を畳み潜んでいる少年が、げっ歯類よろしく、のんきに焼き菓子を咀嚼していたのである。これにはアゲイトの苦笑も多大なる脱力感が滲むのを禁じ得ない。
「ルーク……」
「カロリー消費しすぎた……これ、うまい」
「それは光栄でございますけどね。いっそこのままホテルに運んで差し上げましょうか?」
「やだ。せまい」
立方体のスペースにコンパクトに収まっているルークは、普段と変わらぬ平坦な眼差しをして、規則正しく行儀の良い咀嚼音を立てながら、もそもそと端的に言葉を区切りつつ決してクッキーを口元から離そうとしない。一種独特ながらも真に迫った熱中ぶりに、空腹具合の深刻さを読みとれぬでもない。
アゲイトが苦笑まじりに手を差し出してやると、いつも通りワンテンポ遅れてルークの手が応えた。手元の残りを平らげてから、のそのそと木箱から抜け出してくる。立ち上がる際の、寄りかかられた手応えでルークの疲労のほどを測りつつ、アゲイトは赤い頭についた薬草くずを払ってやった。
……「もしも」の時は、という思考実験をしていなかったわけではない。『商談』に合わせて荷の中身を軽くしておいたのは、単純に横着の一環のつもりだったのだが、今回に関しては無意識下の第六感のはたらきも無視はできないだろう。綱渡りのような僥倖に安堵もひとしおな半面、次回からは自覚的に勘を働かせなければと、アゲイトは自戒する。
「……ホテルに来たんだ、あいつ」
咄嗟に身に着けてきたのだろう、普段使いのウェストポーチから新たなクッキーを取り出してかじりつきながら、ルークがぽつりとこぼした。
アゲイトはあえてあっけらかんとうなずき返す。
「フロントから連絡もらったよ。まさか追いかけっこになってるとは思わなかったけど、間に合って良かった」
「……俺、よけいなことした?」
「一応、ホテル側で対処してもらうようにはしてあったんだけどね。よもやのまさかで本当に突撃してくるとは思わなかったから、ちょっと根回しが甘すぎた。ロビーやホテルの前で張り込みなんかされたら、誰が帰ってきてもまずいことになってただろうから、結果的には助かったよ。『応援』を呼ぶ時間も稼げたしね」
「そか……。レグルはどうしてる?」
そこで初めて、ルークは顔を上げ、まっすぐにアゲイトと視線を合わせた。
ぶれないなぁ、とアゲイトは内心苦笑する。ここまでの無謀きわまる蛮勇も、守りたいものがあればこそ、なのだろう。
「今頃は港かな。同伴者つきの護衛つき」
「ん。なら、いい」
あっけなく視線を落とし、ルークは再びクッキーに没頭し始めた。
……状況の詳細を突っ込んで訊ねてこないのは、余分な情報量を増やしたくないからなのか、あるいは。
アゲイトは空気を切り替えるように、ルークの頭をぽんぽんとたたいた。
「大丈夫。しばらくはもう、『彼』は城下に下りてこれないだろうから」
「うん」
「レグルは平気だよ」
「……うん」
「それにしても、君の無茶には驚くよ。おおきなおにいさんに鬼の形相で追いかけられてるのを見かけた時は、さすがに肝がつぶれるかと思った」
「アッシュ……は」
ふと、ルークは咀嚼をやめ、昇降機の外へと感情の籠もらぬ視線を遠く馳せた。
「あんまり、人の話、聞かないし」
「ぶっ。た、確かに……」
「わりと勝手に自己完結しがち……他人の都合とか、結構簡単に棚に上げる。でも頭も勘もよくて、悪意には敏感だ。あいつ相手に、下手に裏でごちゃごちゃ手を回すと、かえって墓穴掘りそうだからさ。正面から正攻法でいったほうが意表を突けると思って。俺、あいつよりだいぶ頭悪いし」
「ご謙遜を。ものすごく的確な分析じゃないですか。実際、バチカルの迷路を利用して地元の英雄殿を思う存分振り回した知謀と胆力には、心底感服させていただきました」
「それは……今は、俺のほうが、情報が多いから、で……」
急速に言葉のトーンが落ちた。遠くを見つめる眼差しから、潮が引くように力が失われる。アゲイトは密かに息を呑んだ。
言いよどんでいるのではない。脳裏にしかとある、既成概念化されていない事実を、今まさに初めて言語に変換していくようなたどたどしさで、ぽつり、ぽつり、つぶやきが連なっていく。
「……あいつは、俺を知らない、けど、俺はあいつを知ってる……どんなに厳密に仕分けたつもりでも……いっぺん混ざり合ってしまったものなのに……どこまでがあいつで、どこからが俺かなんて……形を与えたところで……『箱』、の、なかみ、は――」
――ご、ごごごごご。
地鳴りのような低音が下方から響いた。
一拍の沈黙。ルークはぱちりとひと瞬きすると、今度は下を向いてやけに切なげな吐息を落とした。
「――はらへった……」
「ぶはっ」
不穏に落ち込んでいく気配に高まっていた警戒心を明後日の方向から見事に蹴っ飛ばされて、アゲイトは思わずまともに失笑してしまった。
折しも、昇降機は目的のフロアに到着したところだった。アゲイトはしつこくせり上がる笑いを喉元で噛み殺しながら、荷を背負い上げ、若干粗雑な手つきでルークの後頭部を押し出すようにはたいて外へ促した。
きらびやかな祭りの夜景が目の前に広がり、冷ややかな夜風に乗って胃を刺激してやまない色とりどりの香りが五感に飛び込んでくる。これは確かに、空腹に堪える。
「半端に食べたからよけいにおなか減っちゃったんだろ」
「……そうかも」
「考えてみたら、僕も夕食はまだだったっけ。何か適当に食べながら帰ろうか。リクエストはある?」
「俺、こういう祭りって、よくわかんないんだけど……」
「おやおやなるほど。それではわたくしめがエスコートいたしましょう。お好みの食材などはございますか、お坊ちゃま?」
「……なんかキメェ」
「ははは。まずは焼鳥屋でも覗いてみようか」
「……おう」
人種も年齢も服装もなにもかも、てんで統一性のない大小二人の姿は、不思議と誰かの印象にとどまることもなく、浮ついた祭りの空気に綺麗に溶け込んでいったのだった。