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彗クロ 4

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 事実、レグルは船上にいた。地味に人生初の体験である。
 ただし、船のエンジンはまったく駆動していなかったが。
「いかがです? クイーンナタリア号の乗り心地は」
 ワイングラスを片手に海を眺めるメリルが、心なしか誇らしげに言った。
 傍らで、手すりを抱きこむように上半身をだらりと乗り上げているレグルは、竹串の鶏肉を歯ではぎ取りつつ、白けた気分で答えた。
「どーもこーも。動かない船なんざ、景色見せるしか能がないんじゃ桟橋より無価値だろ」
「あら、手厳しいこと。これでもバチカル屈指の人気観光スポットですのに」
「『国力衰退の象徴』のマチガイじゃねーの?」
「……貴方、なかなか口が悪いですわね」
 半眼でじろりと見下ろされ、レグルは肩と心臓を跳ね上げた。……妙に迫力のある女だ。手すりにしがみついたまま、じりりと距離をとりつつ、レグルは口先を取り繕う。
「ま、まあ、使い物にならねー成金船を一般公開して小銭稼ごうっつう商魂きたねートコはけっこ気に入ってるぜ? なんだかんだでメシもうまいしなっ」
「……それでフォローしているつもりなのでしょうけれど、まったく貴方は……」
 返答は呆れ混じりで、独白に近かった。猫のような眼差しは上空に向けられ、ぼんやりと、どこか物思わしげにも見える。
 なんとも反応を返しづらい。レグルは手元の鳥串に没頭しておくことにした。
 エネルギーの枯渇問題が差し迫った現状、燃料をドカ食いする船舶の運用は、世界中で緊縮の傾向にある。
 各国は連携して、最低限に抑えた連絡船のダイヤを組んでおり、原則的にそれ以外の海上交通機関を認めていない。商用船は貨物専用に限られ、登録審査も非常に厳しい。そもそも動力船を所有、維持すること自体、年々ハードルが上がってきているのだ。軍艦の類も削減を余儀なくされるような状況では、当然、観光用の豪華客船など廃船の筆頭候補であろう。
 とはいえ、国の威信をかけ、ありとある技術の粋を凝らしたという触れ込みの、しかも王室きっての人気者、ナタリア王女の名を冠するこの船は無情な現実を免れたらしい。それがどこの誰の思惑で、国民がどこまで納得しているかは知らないが、一般客に開放することで体裁と存在意義を存続させるというのは、純粋に上手いやり方だとレグルは思う。
 意匠を凝らした立派な船内は、物見高い観光客にとっては多少の入場料を払っても一見の価値があるものだろうし、気取った雰囲気の船内レストランは、内容にしては割安感もあって盛況だ。夕刻は甲板でもバーベキューを売りにしたビュッフェが振る舞われていて、船内の過剰な華々しさに辟易を禁じ得ないレグルも気軽に楽しめている。
 船上から一面の空と海を見渡すという情緒も、悪くはない。日の出や日没は見事なものだろうと想像できる。ただ、今夜の月は細くて貧相だし、都市の明かりで星も見えづらい。海は大人しく、波音は眠気を誘うばかり。闘技場の興奮を経験したばかりのレグルには、どうしても退屈が回ってきてしまう。
「……あら、貴方、左利きですの……?」
 メリルの、少しかすれた問いかけに、レグルはちょっと目を見張って手元に視線を引き戻した。
 手すりに肘をついた左手は、丸裸になり果てた竹串を、実に器用にくるくると回して弄んでいた。昔、メティを読み書きの練習に付き合わせて以来の手癖である。
 うげ、と顔を歪め、レグルは竹串の慣性運動を手のひらで握りつぶした。しかし時すでに遅し。頭上から注がれる視線は切れ目ない。妙なところで好奇心を煽ってしまったようだ。普段は意識的に右手を使うように心がけているし、脇差は今も左腰だ。不思議に思われても仕方がないか。
 ……まあ、それほど警戒心を剥き出しにしる場面でもないだろう。レグルは小さく嘆息して、腹をくくった。
「もともとはそーだよ。ただ、右手が使えたほうが何かと便利だからって、じっちゃんが」
「矯正された、と……」
「そう、それ。ぶっちゃけめんどくせーけど、そーいうみみっちいところでいちいちオリ――大人に難癖つけられっほうがムカツクしさ。慣れちまえば両利きも便利だぜ」
「……なるほど。貴方のお爺様はとても賢明な方でいらっしゃいますわね」
「なんかそれ、最近どっかで聞いたな……」
「今どき矯正なんて、テーブルマナーに厳しい家柄でもなければ気にしませんもの。ひょっとして、お爺様はそれなりに由緒ある、高貴な身分の出身なのではなくて?」
「ハァ!? なんだそりゃ?」
 レグルは呆れかえって首を上向きにひねった。聖獣チーグルを掴まえて上流階級とは、とんだ見当違いもいいところである。
 もちろんチーグルの長老のことなど知らないメリルは、自分の見込みに少なからず自信を抱いて微笑んでいる。レグルは肩をそびやかして小馬鹿にしてやった。
「ねぇわー」
「まあ。貴方が知らないだけで、人に言えない事情やドラマチックな過去をお持ちなのかもしれませんわよ? 大人とは、得てしてそういったものですわ」
 ふと、ルークの横顔が脳裏をよぎり、しかしレグルは小さく振り払った。ここでの話題は体高こぶし三つぶんの、世にも珍妙な例の魔物の出自である。……考えるだけで馬鹿馬鹿しくなってきた。
 だが、言われてみれば、そんな魔物が人間の利き手を気にするというのも妙な話だ。もしかしたら、それこそお貴族様の愛玩動物として飼われていた、なんて黒歴史があったりして。
 想像して、レグルは思わず吹き出してしまった。これはいい土産話を手に入れた。巣に帰ったらみんなに披露してやろう。しばらくは長老をからかって遊べそうだ。
 くつくつと小刻みに揺れる肩を柔らかに見守る視線があることに、同行者のことも忘れてひとり悦に入るレグルは気づかない。
「――あーッ! いたぁーーーーー!!」
 無粋を形にしたような叫びを背面から浴びせられ、レグルは手すりの上でがくりと肘を滑らせた。勢い込んで振り返り、げっ、とあからさまに顔を引きつらせる。
 入り口のスロープでぶんぶんと大きく手を振る、緑頭の水兵もどきが約一名。
「お友達でして?」
「……ぁあ……ぅん……」
 首を傾げるメリルに、肯定しづらくも否定しきれずに、レグルはもやもやと返した。かといって、こちらから合流するのはものすごく気が進まない。
 しかしほどなく従業員や警備との揉め事に発展するに至っては、さすがに傍観が許される空気ではなかった。あれは絶対、入場料の件でごねいているに違いない。レグルは肺がからっぽになるまでげんなりと息を吐ききって、ようやく、手すりから身を離した。
「おれ、もう行くわ」
「あら。それは残念ですわね」
 言いながら、ワイングラスを揺らめかせるメリルは、なんだかひどく楽しげだ。酔っぱらいめ、とレグルはしまらない気分で悪態つこうとして――やめた。
 欲と道連れに振り回されて、心はずむような会話も特になく、始終彼女のペースに巻き込まれっぱなし。だが、それでも……悪い時間ではなかったと、素直に思う。
「あ、の……なんだ、えっと……」
「はい」
「ッた、楽しかったぜ、ありがと……な」
 メリルは小さく息を呑み――ほころぶように、目元を緩ませた。
作品名:彗クロ 4 作家名:朝脱走犯