小説インフィニットアンディスカバリー第二部
「そうだ、ヴィーカ。もうすぐここを発つことになるから準備しておいてくれ」
「おいらが道案内でいいのかい?」
「酒場のマスターのお墨付きだ。問題ないだろう」
「へへ、あの親父もたまには良いことを言うね」
鼻をこすってみせるヴィーカの得意げな顔に、マスターとの信頼関係がよくわかる。
エドアルドは思わず笑みをこぼした。
そういえば笑うのは久しぶりだな、と張り詰めた心が少し緩んだそのとき、子供の頭をなでるエドアルドの手に、一粒の雫が降り落ち、消えた。
それに続くように、音もなく、重さもなく、金色の雨が降り始める。
「月の雨か……」
「降り始めたときは驚いたけどさ、もう見慣れちゃったよ。身体の調子はよくなっても腹がふくれるわけじゃないしな」
身体の奥が熱を帯びる。緩んだ心の隙間から染みこむように、月の雨はエドアルドの身体を満たしていく。
手の月印が脈打った。
身体の熱も、手の疼きも、エドアルドには覚えのある感覚だった。
久しぶりに作るから、まずは簡単なベリィタルトから。
レッドベリィがカペルの好物の一つだから、というわけじゃない。久しぶりだからまずは作り慣れたものを作ろうと思っただけ。
「どう?」
「おいしいよ」
そして次が本命。
ケルンテンは港町だから、集まる食材も豊富だった。
オラデア山岳地帯の酪農家が生み出した「フェイエールの奇跡」とも賞される一品「オラデアバター」が手に入ったのは行幸だった。オラデア砂丘の熱波に晒されても溶けず、それでいて口の中では濃厚な甘みと一緒になってとろけ出す。それは口にしたものの舌も一緒に溶かしてしまうとさえ言われる一品で、フェイエール小麦との相性はばっちりだ。
それに加えて、砂丘に生息するガルーダという怪鳥の卵、通称「キングエッグ」も見つかった。凶暴なガルーダの巣からこれを採取するのは容易ではなく、これもまた希少な一品と言えるだろう。
このレア食材がそろったことで、アーヤのバターケーキはまさに「激レア・バターケーキ」へと変貌を遂げたのだ。
これで勝てない相手など、いるはずがない。
「どう?」
「うん、おいしい」
にもかかわらず、カペルの反応は全く一緒。何を食べても「おいしい」の一言だ。明日のコンテストに向けて味の調整をしたいというのに、全くもって役に立たない。
「でも、ほんとにおいしいんだって」
ただ、これだけおいしそうに食べてもらえれば悪い気はしない。それは料理をする人なら誰だって同じだろう。ご多分に漏れずアーヤもそうで、カペルがケーキをほおばるのを見ていたら毒気も抜けてしまった。
「はぁ、もういいわ」
そう言って微笑むと、アーヤも一かけ、自分のバターケーキをほおばった。カペルはカペルで別のケーキに手を出し始める。
がっつく様子を半ば呆れながら見ていると、カペルの頬に生クリームがついているのが見え、考えるでもなしにアーヤは手を伸ばしていた。
「ほら、クリームがついてる」
そして、そのクリームを人差し指で拭き取ると、何気なくぱくりと自分の口にやる。
まるで子供ねと苦笑していたアーヤだったが、甘さが舌の上を通過した直後にふと我に返り、自分の行動を顧みた。
「あっ……」
自分の人差し指を見つめ、次いでカペルの頬を見遣ると、彼は何を気にするでもなくまた一口、ケーキをほおばっている。
……一人で意識して、なんだか私がバカみたいじゃない。
「ん、どうしたの?」
「なんでもないわよ、バカ!」
「……またいきなり怒り出しちゃった」
ぷいと背を向けると、視線の先にあった厨房の入り口に二つの小さな影が見えた。慌てて顔を引っ込めても誰かくらいはすぐにわかる。
ルカとロカだ。
何事もなかったかのように意気揚々と厨房に入ってくると、二人は棒読みで言った。
「あっ、カペルだけケーキ食べてるなんてずるい!」
「ワタシもケーキ食べたい!」
カペルと一緒になってケーキを食べ始めたのを見て、アーヤは大きく肩を落とした。ほんとに、私一人でバカみたい。
顔を上げると、いつの間にかドミニカが厨房の入り口にいる。目が合うとドミニカがにやりと笑った。
……ドミニカにも見られてたんだ。
「上手くいったかい、アーヤ?」
「べ、別にそういうんじゃないんだからね」
「ふふ、ケーキのことだよ」
そう言ってまたにやりと笑う。
からかわれたのがわかると、こみ上げてきた恥ずかしさに頬が赤くなってるのが自分でもわかる。
「もう知らない!」
バターケーキの味は十分満足のいくものだった。明日はあれで勝負すればいい。
だからいまは火照った頬を冷ましたい。アーヤは、ケルンテンの凍るような寒さに身をさらすため、カペルたちを置いて外に出たのだった。
「さむっ……」
思わず身体が震え、アーヤは自分の腕を抱いて白い息を吐いた。
「もう少し厚着したほうが良かったかな」
フェイエールで育ったアーヤにとって、防寒のために服を着るというのは思考の外だった。月印を使えばある程度は調整できるし、何より今の格好が動きやすくて好きなのだ。
そんなアーヤでさえ厚着したくなるほどに、今夜のケルンテンは寒かった。
「どうですか、ケーキ作り」
ふいに声をかけられ、アーヤはそちらに視線をやった。そこにはファイーナが一人で立っていた。手袋に包まれた手には買い物袋。マフラーに顔をうずめ、もこもことした耳当ての後ろで一つに結った栗色の髪が揺れている。
女の自分から見ても、思わずドキリとしてしまいそうなほどにかわいかった。
「まあまあね。ファイーナさんは?」
それを悟られぬように、腕をこすりながらアーヤは言う。
「まあまあです、私も」
さっきのカペルとのことが思い出されて、なんだかアーヤはちょっと気まずい。そんな微妙な沈黙を払ったのは、ファイーナだった。
「あの……、コンテストが終わったら、私とアーヤさんの作品、交換しませんか?」
「えっ?」
「アーヤさんの作るケーキ、食べてみたいです」
「べ、別にいいけど」
ファイーナの紅潮した頬が屈託のない笑みを浮かべるの見、胸がきゅっと締まるのをアーヤは感じた。
思えば、ファイーナさんと違って私はいつもカペルと一緒にいる。それは封印軍との戦いがあるのだから仕方ないけれど、彼女のことを思えば、少しずるい気もする。だから……
「……うん、私もファイーナさんの、食べてみたい」
「でも負けませんから」
「私も負けないわ」
ファイーナの笑顔につられてアーヤも笑う。自然と口をついた言葉が、心のもやもやを払ってくれる感覚にアーヤは少し驚いた。
ファイーナさんとはきっと仲良くなれる気がする、とアーヤはふと思った。
王族として過ごしてきたアーヤにとって、心を許せる同年代の女友達というのは、手に入れたいものでもあり、手に入らないものでもあった。感情をぶつけ合える相手なんて、カペルと出会うまではドミニカくらいしかいなくて、たぶん、同年代ではファイーナさんが二人目。
だから、彼女ならきっと……。
「気をつけて帰ってね、ファイーナさん」
「アーヤさんも風邪を引かないでくださいね」
それで、ファイーナは自分の宿に帰っていった。
「負けられないなぁ……」
作品名:小説インフィニットアンディスカバリー第二部 作家名:らんぶーたん