小説インフィニットアンディスカバリー第二部
だが、寝ている暇はない。すぐにエドアルドが追撃してくるのがわかっているから、カペルは転がる勢いを借りて立ち上がった。目の前にはもうエドアルド。その間に横から割って入ってきた矢が次の一撃を牽制してくれなければ、今度こそやられていたかもしれない。
アーヤは当てるつもりで放ったのかもしれないが、鋭敏になったエドアルドの感覚がそれを許さないでいた。猛り狂っているように見えても、こと戦闘に関しては冷静な部分もある。それが、他のリバスネイルとエドアルドの間にある大きな違いだった。
漆黒の翼をはためかせ、エドアルドが跳躍した。大上段に構えた剣を逆手に持ち替え、刃を下方に向けて飛び込んでくる。
この技も知っている。
カペルは再び後方に飛んでそれをかわしたが、さらにもう一度後ろに飛んだ。直後、カペルのいた場所に翼の色を映した光の剣が何本も降り注いで突き刺さる。
地面に突き刺さった大剣を引き抜き、エドアルドが咆哮を上げた。
……このまま逃げ惑っていても、エドアルドを止めることは出来ない。だからといって、実力の上でも、気持ちの上でも、今のエドアルドを斬ることなど、カペルには出来なかった。今はとにかく、ソレンスタムさんが薬を取り返すのを待つことしかできないのか?
「カ……ペル……」
エドアルドのうめく声が、僕の名前を呼んでいる。
怒りと一緒になって、助けを求めるような弱さの混じるその声が、カペルに一つの決断を促した。
逃げてるだけじゃダメだ。正面から向き合わないと、エドアルドを救うことなんて……。
いつの間にかまぶたの裏に焼き付いていたシグムントの姿を思い出し、カペルはそれを真似て剣を構える。
守るべき大切なものを見つけたら、何があっても守り抜け。
その声を反芻し、カペルは不思議としっくり来る構えの向こうにエドアルドを見た。
エドアルドが求めているのはシグムントさんだ。だけど、彼はもういない。
だから、僕が——
「来い、エドアルド!」
シグムントと重なったようなカペルの声音が、切っ先を超えて真っ直ぐに飛んだ。それを聞いたエドアルドが、躊躇する。剣をだらりと下げ、弱々しくカペルの方へと手を伸ばす。その赤い双眸が濡れているのをカペルは見た。
「シグ……ムント……サマ……」
助けを求めるその痛さも、つらさも、カペルは知っている。そのエドアルドの感情は、猛るばかりのリバスネイルのそれとは別のものだ。黒く光る月印の向こう、薄皮一枚を挟んだ場所に、エドアルドはいる。手を伸ばせば、薬がなくても届くのではないか。かすかに光明が見えたかと思えた刹那、それを遮るように刃と刃がぶつかる音がカペルの鼓膜を震わせた。
音の方を見遣ると、そこにはリバスネイルとなったヴィーカの兄と、鎖鎌を振るうキリヤの姿があった。互いに押し合い、何度もぶつかりながら、不規則な金属音を土塊の闘技場に響かせる。
エドアルドに僕の声が届くのなら、ヴィーカの声も彼に届くのではないか。そんな希望を見出したような気がしたカペルだったが、それを押し流すように、今度はエドアルドの咆哮が耳朶を打った。
再び獣の目を取り戻し、エドアルドは大剣を構えて大地を蹴る。だがそれはカペルにではなく、同じ漆黒の翼を持ったヴィーカの兄へとだった。
エドアルドが力にひどく固執するのは、封印騎士に敗れたのがきっかけでもあることを思いだし、彼がヴィーカの兄の姿に封印騎士を重ねたのだと、カペルは理解する。
その動きを追うだけの速さはカペルにはない。だがそれでも、追いかけずにはいられない。
「待って、エドアルド!」
その声はむなしく響くだけで、エドアルドはかまわずに突進を続けた。
ヴィーカの兄が、つばぜり合いをしていたキリヤを蹴り飛ばし、突進してくるエドアルドの方に向きを変える。だが、蹴り飛ばした分の動きが反応を遅らせた。
エドアルドの大剣が突き出され、刃が衝撃波をまき散らしながらその身体を捉えるかに見えた。
瞬間、小さな影がその間に割って入る。
「ヴィーカ!」
カペルの叫びは、エドアルドの巻き上げた土煙の中に消えた。
「まさか、そんな……」
一瞬の静寂が世界を静止させた。
そして、荒涼とした大地に、乾いた風が吹く。
それが土煙を吹き流し、その中に消えていた三人の姿をあらわにした。
そこにあったのは、大剣を繰り出したエドアルドと、その剣に腹を貫かれたヴィーカの兄、そして、その横に突き飛ばされたヴィーカの姿だった。
「兄、ちゃん……?」
エドアルドが剣を引き抜くと、ヴィーカの兄はその場に崩れ落ちる。
返り血で赤く染まった手を見つめ、大剣を落とすと、エドアルドが頭を抱えて絶叫した。
「ガアアアアアアアア!!!」
「エドアルド!!!」
カペルの声に反応し、エドアルドはそちらへと猪突する。振り上げられた拳を受け止めながら、カペルの胸には、刃にも似た痛みが突き刺さっていた。
倒れたリバスネイルの身体から、闇が消え去るのをキリヤは見た。残ったのは、次第に人間の姿を取り戻していく男と、それに寄り添う少年だけ。
「ヴィーカ、か……」
絶え絶えになった息の合間に、か細く漏れる声。それに混じって、口から鮮血がこぼれ落ちる。
「意識が……兄ちゃん、意識が戻ったのか?」
ふっと笑った口元を染める血の色は、純度を取り戻した月印の光と同化し、こぼれ落ちて大地を朱に彩っていく。
「ま、待って。薬があるんだ。それで月印の病気も治るから——」
そう言って治療薬を使おうとするヴィーカを、キリヤは腕を掴んで止めた。振り返るヴィーカの目には、怒りと、やるせなさと、涙が滲んでいる。それを見て、この少年がすでに兄の状態を理解していることを察すると、キリヤはただ事実だけを告げた。
「もう間に合わん。月印も、身体も」
「嘘だ! 嘘だと言ってくれよ。この薬で治るって、そう言ってくれよ!!」
ときに、言葉は心に嘘をつく。
全てが終わったことを肌で感じながらも、ヴィーカは言葉でそれを否定せずにはいられない。止まらぬ涙が、その気持ちを雄弁に語っていた。
「おまえ、最初からわかっていたんだろう?」
それでもなお、止められぬ思い。自分を騙して、他人を騙して過ごす日々。この小さな身体が抱えた痛みの大きさが想像できると、それはキリヤの中で、兄弟子への怒りへと変質していく。
ヴィーカはキリヤの問いに答えるでもなく、肩を落として涙を流す。兄が弱々しく腕を上げ、そっとその涙を拭ってやると、血に染まった手がヴィーカの頬を赤く染めた。
「ヴィーカ……ありがとう……」
弱々しく震えた喉から声が漏れ出す。それが最期だった。
ヴィーカの頬を撫でていた手がぼとりと大地に落ち、頬を染めた彼の血が、止めどなく流れるヴィーカの涙によって洗われていく。
治療薬を手放し、ヴィーカは動かなくなった兄の手を強く握った。キリヤはその薬を取り、ぽんと一つヴィーカの頭を撫でてやると、その目をヘルドの方へと向けた。かつては本当の兄弟のように過ごした兄弟子の姿。変わり果てたその姿に、怒りと失望が折り重なる。
「最後に自我を取り戻したか。やはり面白い素材だったな」
作品名:小説インフィニットアンディスカバリー第二部 作家名:らんぶーたん