manjusaka
外伝 花ノ守人
夜中から降り続く雨。静かに音を奏で、大理石を磨きながら籠った熱すらも洗い流す。冷ややかな空気に満たされた宮をまるで天然の冷凍庫と化すようにして。
シャカは磔られたかのように横たわり身動き一つできないでいた。そのような真似をすれば、なおのこと床に接地した面から当たり前のようにどんどんと体温が奪われていくばかりであっても。
静けさの溜まりに落ちた身の感覚にでも溺れているかのように思いながら、まるで身体そのものが宮へと変化したような不思議な感覚に堕ちていた。人ではない無機物として、僅かばかりの癒しを得んとでもしているかのようだとほくそ笑む。
一昼夜飽くことなく同じ姿勢のままでいることはざらにあったが、今ほど重く、苦しいと思うことはない。こんな感情に満たされるのは、あの腐った海の、深い闇の中で唯一在ったあの時以来だった。
【 此岸ニ咲ク花 〜花ノ守人〜 】
冷たい寝床に縫い付けられたようにシャカは力なく横たわったまま、時を過ごしていた。どれだけの時間を――と問われても「わからぬ」と答えるしかないほどに、ただ虚ろのまま消費していたのだ。規則的に心臓は鼓動し続けた。呼吸も途切れることはなかった。ただそれだけである。
ちぐはぐに迷走するシナプス。もはや統合する術も失ったかのように思えた。
つい先程から、カツカツと響く規則正しい靴音が来訪者を告げてはいたけれども、物言わぬ躯のように痺れたまま、シャカは浅い呼吸だけを繰り返すのみだった。
「―――海皇が動き出しました。悠長に眠っている暇などありませんよ、シャカ。起きていただけませんか」
カツンと顔近くで足音が止まり、なんの感情も乗せることもなく、ただ事務的に伝えられる来訪者の言葉が降り注いだ。それがスイッチとなって、ようやくぴくりとシャカの指先が動く。
重い枷に繋がれたような感覚からはシャカはまだ抜け出せずにはいたけれども、それでもゆっくりと身を起こすことが可能となった。
「我らが出張らずとも、青銅の餓鬼共が責を果たすであろう。違うかね、ムウ?」
纏わりつく重怠さを厭うように指先をシャカは額に宛がった。わずかばかりではあったが、シャカの思考はクリアとなる。
「今、この私の力が必要とも思えぬ―――」
「何を仰る?シャカ、あなたは託されたのでしょう?この聖域を守れと『彼』に」
溜息を一つ零しながら、意図的に『彼』という言葉を強調しながらムウは大袈裟に肩を竦めた。
「私は聞いてはおらぬ。直接、この耳で。その言葉を聞いたのはおまえだけだ。託されたのはムウ、おまえであろう。私は知らぬ」
「またそのような駄々を捏ねる子供のようなことを。そんなに置いて行かれたことが悔しいのですか。それとも、覚悟が足りなかったご自分を恥じておいでか、シャカ」
わざと挑発でもしているのかと思うほどの底意地の悪い言葉にシャカは眉をひそめた。
「どちらも当て嵌まらぬ。私にはそのような感情などない」
「そうですか、それは良かった。その言葉を聞いて安心しましたよ。では聖域の未来のためにも、しっかりと働いていただきたい」
シャカに一瞥をくれたあと、時間を惜しむようにムウは慌ただしく処女宮を立ち去っていった。取り残されたシャカは重力に引かれるまま、座ったまま顔を俯かせる姿勢を取った。さらりと流れた髪が表情を覆い隠す。
再び訪れた静けさに雨垂れの規則的な音が眠りを誘うような柔らかな響きを奏でていた。自堕落にぼやけていく意識の淵。それは着の身、着のまま裸足で歩くような……いや、いっそ全裸で浮遊するような危険な感覚であったが、シャカには恐怖などという言葉は微塵も感じなかった。
―――もうとっくの昔に私の心は砕け散ったのだから。
飛び散ってしまった心の破片を踏み締めながら、過去の淵をシャカは彷徨い続けているような心地であり、醒めない悪夢に苛まれているような状態に今も堕ちていた。
サガの遺体と対面したあの瞬間。
サガの姿を目の当たりにしたシャカは絶句した。なぜなら、大切に仕舞いこんでいた記憶のサガとの面影の差に驚きを覚えたからだ。
教皇として振る舞い続けた彼の幻影は幼き頃よりもほんの少し大人びて苦悩の面を張り付けていたように視えたけれども、実際はもっと美しい男で、それに……微塵すら苦悩という文字が浮かばぬほど、穏やかに――それこそ、まるで眠っているようにしか見えぬほど安らかな微笑みを浮かべていたのだ。
人の記憶ほど不確かなものはないのだと突きつけられたことで、当の昔にシャカは自身の中でサガという人を抹消していたのではないのだろうかと、おのれの薄情さに怒りすら感じた。そして、すべての業から解き放たれた散華の花のように、死だけがサガに平穏を齎したのだと考えると、シャカは周囲の空気が一気に消え失せたような窒息感に見舞われたのだ。
縋るものなど何一つない。
シャカ自身、弱り切っているのを自覚している。そして恐らくはその魂胆など見抜いているのであろうムウの態度が、シャカにすればそれゆえに清々しいほどとさえ感じられた。
甘えなど絶対に許さない――。
ムウは無言でシャカに示してみせている。沈黙という形で深い眠りのような13年という日々を実際に送ってきたのだ。揺るぎない鉄の意志を抱えて。その鉄の意志を支え続けた胸の奥底にあるものはどのような感情なのか――。
それを知れば今、この瞬間も心に蝕み続ける喩えようのない虚無感を少しでも抉り出すことが可能だろうかと自問するが、結局、螺旋のように絡まる感情を紐解くことなどきっとできないだろうと力なく笑った。