manjusaka
此岸ノ黄昏 6
「ふ……ふ、はははっ!……っ……う……あぁあ、うああっ」
にじり寄るように引き攣りあげる嘲笑と絶叫、そして嗚咽が入り混ぜながら、産声のごとく教皇の間に咆哮を響き渡らせた。
雑多な感情に憑依されている間にも十二宮を駆け抜け、女神の加護を受けた少年たちは教皇宮へと迫っていたが、すべての感情を吐き出しきったあとは不思議と心は静かに定まっていった。
もう、今の私には何も偽る必要もなく、守るものも何一つない。
漂白されたような、もしくは生まれ落ちた瞬間のようだともいえ、ひどく心が澄んでいる。こんな風に晴れ渡る心の態を久しく感じたことなどなかった。
「……来たか」
大いなる力を纏った少年が、聖域に暗雲をもたらした者へ断罪を下すべく、数々の試練を乗り越えてようやく教皇の間へとつながる扉の前に辿り着いた。
女神の威を纏う少年――星矢と対峙する。
もっともらしく、わたしは純真無垢なる聖闘士の精神で女神を救う手立てを説いたのち、深い情愛と共に育った数多の苦しみと悲しみ、憎しみを覚えた真実の己を開放する。最後にして最大の壁としてふさわしく。
荒ぶる精神のままに、剥き出しの感情のままに、全身全霊を込めて星矢に闘いを挑んだ。
誰よりも愛した聖域。何者にも代えがたい尊い女神。それらに牙剥く行為……つまりは我が身に刃を突き立てるようなものだと思いながら。
人々を悪から守らんがため、正義の名のもとに研鑽し、我が身も精神もジェミニに捧げた日々。すべてはそれだけで満たされていたはずだった。だが、ただ一人を慈しみ、大切に思うこと、共に生き行くことの素晴らしさ、愛しさをわたしは知ってしまった。
教皇を騙り演じてきたわたしは、嘘偽りのない本来の姿でもあったのだと今ならば認めることができた。救い難いほど、とても傲慢で残酷な、虚栄に満ち、醜く愚かで、浅はかで哀れな、弱く、脆い一個の人間。
―――それを邪悪なのだと定義するならば、それでもいい。それこそが真実なのだから。
「ここへ来て、わたしの体を覆え!我が聖衣よ!!」
久しく纏うことのなかったジェミニを呼び出す。悪意の塊でしかない己の体を厭うこともなく、黄金色の輝きを失わず、ジェミニは我が身を包んだ。
星矢に己の正体を明かした際、「なぜなんだ?」と問われた。シャカも尋ねたその問いに対して、わたしはシャカには答えたけれども、星矢には真実を話す気になどならなかった。
「――おまえなどに何もわかりはしない……また、知る必要もない!」
ただ一つの道を盲進する者に、眩しい正義だけを信じる者に、守るべき者を守れなかった痛みと苦しみを知らぬ者に、己が抱えた深い想いなど決して理解できるはずもないからだ。
そして、すべてのはじまりである女神の、その威を代行する者にやすやすと死を与えたりはしない。
バルゴに魅入られなければ。
聖域に招き入れられなければ。
私が―――
手を差し伸べなければ……。
修羅の道を知ることもなく生きていたかもしれないシャカの技を以って、苦しみを与える。異次元から強引に引き戻した星矢の感覚をひとつひとつ削ぎ落としていく。星矢の姿に己が身を重ね、我が身を砕き削り続けるように力を揮った。
満身創痍になりながらも、決して諦めることもせずに幾度となく立ち上がる星矢に最後の一太刀を振り下ろそうとしたその時。
シャカと共に消滅したはずの男、一輝が星矢の加勢に現れたのだ。
―――なぜだ!?
たった一人、加勢にしたところで圧倒的な力量の差。万に一つの可能性さえ感じ始めながらも、なぜ一輝がこの場に現れることができたのかという疑問が内心渦巻いていた。
そして、何よりも一輝とともに消滅したはずのシャカのことが気になった。シャカもまた一輝同様にこの修羅の世界に舞い戻ったのだろうかと……集中力を欠いた。
一輝と星矢との闘いは希薄な意識となっていた。第六の宮、処女宮にシャカの小宇宙の存在を探り、そして戸惑う。
そこにあった存在は闘い以前のような、揺るぎ無い真っ直ぐな魂の力強さを明示するようなシャカの小宇宙ではなかった。不安定に風に揺れる木の葉のように頼りなげで、心細く迷いに満ちた――例えるなら『迷子』のような。なおもこの世界に縛り付けるバルゴの無慈悲さを呪う。
そっと吹いた吐息でも吹き消されてしまうほどに、途方に暮れる蝋燭の灯のごとくの魂が行き場を失くして留まっているようなシャカ。それはまるで幼き頃にわたしを探し求め歩いたシャカのようにさえ思えて、心が掻き乱された。
追い打ちをかけるようにシャカがムウへ投げかけた問いによって、いよいよ隠し続けた秘密が暴かれる。
『―――双子座のサガ』
躊躇なく死の鎌を振り下ろすようにして、ムウが告げた名は衝撃の波紋となって聖域を覆い尽くす。夜が明ける前の、星が生まれる前の、最も深い闇の底に今、佇んでいるのだろう。
あと僅かなひと時ののちに訪れるであろう、眩い光。渇望しながら、きっと得られぬままに私は終わるのだと確信する。
星矢との闘いの最中、黄金聖闘士たちの問いに対して、絶望の精神が虚ろな雑音のように応え続けた。時折、悲しげに囁く声が耳に届き、心は軋み続ける。聞き取れぬほどの小さな囁きのはずなのに、悲痛に放たれた囁きは魂の叫びとなって私を突き刺していた。