瀬戸内小話1
更待月
するりと、音も立てずにそれは我の身の内へと入り込んだ。
無味無臭の毒のように、じわりじわりと身体を腐らせてゆくそれは、抗いがたい麝香のようで。
心地よい。だが、惑わされてはならない。その先は、深淵の闇しかないのだから。
「なぜ、そなたは我の前に現れる」
「さあね」
船上より現れた鬼は、家臣らと共に毛利の領地に陣を張る。
夜更けまで飲めや歌えやの大騒ぎをして、ようやく落ち着いたと思えば人の館へやって来る。
「そなたが来ずとも、家臣を遣せ。連絡は、それで十分であろう」
豊臣ら織田ら、諸国の武将らが覇を競う中、憂いを増やさぬためのほんの凌ぎの同盟。それが四国の長宗我部。
いずれ、袂を別つ仲。
なにより、この鬼は毛利、いや我に対し、快く思っていなかったはずだ。なのになぜ、この男は我の屋敷で酒を飲む。
「それじゃ、あんたの顔が見れないだろ?」
何故、屈託ない笑みを浮かべてみせる。
ほら、と差し出された杯。受けねば非礼と手に取るが、よく考えれこの男の訪問自体が非礼な話。
それを指摘すれば何かと言い訳するのだろう。結局、相手の顔を立てるために我は黙る。
視線を落とした先、掌のうちの白杯に注がれた酒に、更待月が影を落とす。
この鬼が、この館へふらりとやってきたのは、この月がまだ満ちる前であった。
ほんの、数えるほどの逢瀬。
さしたる会話もなく、ただ月を見ながら酒を飲む。それだけなのに、我はひどく酔う。
「……オレが一時でも背を預ける相手だ」
「…………」
「毛利の、お前のやり方は気に入らない。だが、国を守ろうとするアンタは信じてるぜ」
人が一夜かけ、杯一つを空にするのとは対照的に、目の前の男は軽々と杯を重ねる。
「手駒にもならねぇ。手下は犬死させない。あいつらの命は全部、オレが守る」
ちらりと睨めつければ、屈託なく笑い返される。
胸の奥に沸く、不愉快な感情。
ほら、また毒が滴る。
「アンタも、オレの友だ。危なくなったら守ってやるよ」
「黙れ。……貴様らに守られるほど、この毛利元就、惰弱しておらぬ」
「ハイハイ」
からりと笑い、また杯を飲み干す。
忌々しいと舌打ちして、我も杯を空けた。
「貴様がいるだけで、悪酔いするわ」