瀬戸内小話1
落日
青い空に浮かぶ何かを、元就はずっと追いかける。
視線を彷徨わせ、時折、ふと笑う。
その笑みは、すべての重荷から開放されたまるで童のようで。それが余計に、見るものの胸を締め付ける。
挟撃に遭った毛利軍の殿を務めたのは、彼らしくない選択だった。
大将は命を繋いでこそ、その務めを果たす。なのにその時、彼は自分の息子らを逃がすことを第一とした。
類まれな智略で広大な中国を奪い取った男は、このときすべて計算し終えていたのだろう。毛利軍の敗北と、どうすれば最も被害を少なくするかを。
そうして、彼は自分を囮にすることで、兵の敗走を防ぎ、多くの兵を守ったまま撤退を成し遂げた。
ただ。
大地を裂くほどの威力を持った豊臣の一撃を食らい、元就は馬上からぬかるんだ大地へと吹きと飛ばされた。兵が死に物狂いで守り、高松の城へ連れ帰えれたのは奇跡に近い。
何日も目覚めぬまま、懇々と眠りつづけた元就。
息子らが見守る中ようやく目覚めたとき、彼はすべてを忘れていた。
「……元就、風邪ひくぜ?」
小さな庭で、暮れ行く日輪に向かって手を伸ばす白い手を取り、促す。
何故邪魔を?
ゆっくりこちらを向く瞳が、如実に訴える。
もう凍てついた覇気も何も感じられない、柔らかな瞳。――毛利元就はもう、いない。
「中に入ろう」
二度と兵を殺さない代わりに、二度と彼は大将と成り得ない。ここにいるのは、刀も采配も振るえない何の役にも立たぬ男だ。
それでも、請いて四国へ連れ帰った。
毛利に置いておくのは、あまりに哀れだった。きっと、元就自身も望んでいなかったはずだ。あのまま中国にいれば、毛利は弱くなってしまうから。
冷えた手を握り締めると、もう一度促して歩き出す。その元親の背に、冷ややかな声が掛かる。
「――相変らず、甘い男よ」
「元就っ!」
驚愕に振り返ると、元親の激しい様にこちらも驚いたような元就の顔がこちらを見る。
「…………っ。驚かせて、すまねぇ」
分かっている。幻聴は過去の思い出であり、願いであることは。
それはいつかまた、元就が毛利元就に戻る日を焦がれずにはいられない己のあさましい欲望の発露。
白い手が、己の手を引く。
「……元就?」
落陽の中、彼は笑う。
「…………」
薄い唇が、また言葉を刻んだ。