瀬戸内小話1
凌雲
彼は何も言わず、何も面に浮かべず、ただ海を見ていた。
瀬戸海はいつもと変わらない穏やかな色を湛え、澱みなく波を紡ぐ。
大きな戦があったと聞く。
豊臣も毛利も、酷い傷を負ったと堺の商人は教えてくれた。
大きな戦があるだろうと、一月前に尋ねた城で彼は言った。
勝つ算段は、と戯れに聞けば、我が負けると思うのか、と冷たく応された。
あの別れの日以来、毛利も豊臣も戦準備を重ね、外からは内情を窺い知ることはできなくなった。
幾人も放った間者は、みな戻らない。
だから、ただ待つしかできなくて。
急ぎ船を出させ、中国へ向かう。
派手に向かえば豊臣を刺激しかねない。だから、船は夜陰に紛れさせ。
酷く時間をかけて向かうことが、毛利と、ひいては長曾我部のためと分かっていても、もどかしい。
ようやくたどり着いた中国の地は、しかし一月前とさして変わりはなかった。ただ、少しばかり民が減り、武士に疲労の色が残る。
――怪我人の多くは死にました故。
案内をしてくれた年老いた武士は、そう言って肩を落とした。
吉田の城へ向かうかと思えば、元就は郡山城に戻っていないという。
何故、とは聞けない。
まだ物々しい成りをした兵が海岸沿いに立ち、警戒を続けている。状況をなによりも早く知りたがる中国の主は、まだ戦が終わったと思っていないのだろう。
案の定、元就の周りにはまだ血の臭いがした。
「……もう一戦、仕掛けるのか?」
海を眺める男の背に、声をかける。
西の大地を朱に染める戦いは、たったひとりの小さな頭の中で今も尚、繰り広げられている。
袖口から覗く、身体を覆ったあまたの白も、この男の歩みを止めれはしない。
踏み出して、傷に触れぬようその細い背を抱く。でも、彼の面には、やはり何も浮かばない。
ひとつの家を肩に乗せるものの定めとして、毛利の戦に口を出すことはできない。元就も知っているから、決して語りはしない。
「瀬戸海を」
だから、別の言葉を紡ぐ。
「……また、あんたと見たいな。こうして」
囁いて、彼が見る海へと視線を向ける。
人の生き死になどどうでもよいというかのように、海はただ凪ぎ。
いらえの代わりに、胸に男のぬくもりが触れた。