あなたと会える、八月に。
◆3
楽譜を再びファイルにしまい込むとジュリアスは立ち上がり、とりあえず午前中の練習を終えた。
日中のホテルの通路にはほとんど人影がない。このような海辺にやって来て、ホテルの中−−それも食堂などでなく音楽室の辺り−−にいるような者はせいぜいジュリアスぐらいのものだ。それを幸いにジュリアスはふと笑みを漏らす。
あの二人。
ジュリアスが直感したとおり、あのときゼフェルはリュミエールの許へ文句をつけに行っていたらしい。ジュリアスの擁護に回ること自体、ゼフェルは良しとしなかったようだが−−そう後で本人がジュリアスに言った−−ロザリアが飛空都市を去ることにした経緯を思うと、不満げにしたリュミエールが許せなかったらしい。もっとも、詳細を話す訳にもいかず、言いたいことがありながら言えないという、鬱屈した状況だったようだ。ところが、いざ蓋を開けてみると、リュミエールとゼフェルは考えが一致していた。
「『八月には会える』って言うんだぜ、ジュリアスはよ」
「えっ、そうなのですか?」
「ロザリアにそう言ったら……」ふとゼフェルはジュリアスの視線に気づき、リュミエールに「耳を貸せ」と言った。
「……ゼフェル」
「もったいねーから、あんたにゃ教えねー」
軽く睨むジュリアスに対しそう言うとゼフェルは、ひそひそとリュミエールの耳元で囁いた。
「……そうだったのですか……」
「オレもう、とりあえず、それならそれで、いいっかーって思ってよ」
「そうでしょうね……」
しみじみとした笑みを見せてリュミエールが頷く。
「けどよ」ちらりとジュリアスの方へ視線を流し、ゼフェルは言う。「オレなら手放さねーけどってジュリアスには言ったんだ」
「そうなのですよ」我が意を得たりとばかりに深く頷いてリュミエールは続ける。「ですから、今朝思わず」
「そうだったのかー、知らねーこととはいえ、悪かったな」
「いえ、こちらこそ」
二人で納得し、意気投合している−−当人のジュリアスを放っておいたまま。
そして。
ジュリアスにとっては一ヶ月。
けれど、と二人は言う。
ロザリアにとっては二年経つのだ、と。
二年も経てば、変わってしまうこともある、と。
そのように、心配してくれるのはありがたい。だが、ジュリアスは全く気にしていない。
「その、どーしよーもねぇ自信はいったいどっから来るんだ?」
呆れ顔でゼフェルが言うので、ジュリアスは自分にとって至極当然のことを言った。
「ロザリアは口にした約束を、二年ごときで安易に違えるような娘ではないからな」
二人は一瞬呆気にとられたような顔をして、その後同時に笑った。
「それにしても……ピアノと水泳ですか……大変……ですね」
そうリュミエールが言うと、横でゼフェルが頷く。
「けど、やらねーとな」
「……約束、ですからね」
「約束……だからな」
「そなたたち……」苦虫を噛み潰したような顔をしてジュリアスが言う。「全く……同情していないな」
「なんで、あんたに同情なんかしなきゃなんねーんだよ」
冷たく言い放つゼフェルに対し、リュミエールはにっこりと笑ってみせる。
「ピアノは門外漢でお役に立てませんが、水泳はお手伝いしますからね……とりあえず息つぎができるようになりましょう」
「ンな、おもしれーこと、やってたのか」リュミエールに向かいゼフェルはうらやましげに言う。「オレも見てぇな、ジュリアスがあんたにビシビシしごかれてっトコ」
「そんな」手を振り、リュミエールは笑う。「滅相もないですよ、ジュリアス様をしごくなんて、そのような」
「そなたたち……」
ゼフェルとリュミエールはその、呻き声にも似たジュリアスの呼びかけに気づくと、二人そろって笑顔で告げる。
「ま、がんばれよな、ジュリアス」
「そうですね、がんばりましょうね、ジュリアス様」
……だから、がんばっているではないか。
思わずジュリアスはふぅと息を吐く。
海へ行って水泳も、とは思うのだが、まずはピアノが先決だ。だからこうして、朝も昼も音楽室にこもっているというのに。
とにかく。
昼食を済ませたらまた練習せねばとジュリアスは、件の食堂へ行こうとしたものの、その足が、ぴたりと止まった。
向こうから、車椅子を押してくる老婆の姿に目が釘付けとなり、その車椅子に乗っている、痩せて年老いた男を見る。そしてその近くにきっと、いるに違いない青い髪の娘を探す−−その娘だけがいない。
けれど。
周囲がざわめく。
突然、ジュリアスが小走りにその二人の元へと駆け寄ったからだ。
「……ジュリアス様!」
目を大きく見開いて叫んだのは−−コラだ。
その声に車椅子の老人が顔を綻ばせる。
綻ばせて、両手を前に差し出した。
その手をジュリアスが掴む。
顔をくしゃくしゃにして笑うと、彼はおもむろに言った。
「どうだね、久しぶりに……海際の砂浜でチェスをしないか?」
作品名:あなたと会える、八月に。 作家名:飛空都市の八月