あなたと会える、八月に。
◆6
もともと少し出遅れた。それに、女である自分の方が身支度に時間がかかることは否めない。だから海際の砂浜に点在するテントのひとつにジュリアスが、すでに来ていたとしても不思議ではない−−彼が水着姿であること、しかも、周囲から大量の視線を集めていようと委細構わずテントの前で準備運動に勤しんでいること以外は。
「ああ、ロザリア」微笑んでジュリアスが、片方の腕を上げ、その肘をもう片方の手で後ろへ引きながら言う。「そなたもきちんと準備運動はしておくようにな」
ジュリアスが自分の名前を呼んだとたん、一斉に周囲の視線がロザリアに集まる。すでにロザリア自身、これらのものとは異なる視線−−男性からのものばかり−−を浴びていたことは自覚していたが、こちらはまた、ずいぶんと棘のある−−
「まあ、泳げば腹が減る。そうすればそなたも少しは物が食べられるようになるであろう」
今度はアキレス腱を伸ばしながらジュリアスがぼそりと言った。その浮き出た筋を綺麗だと思いつつ眺めていたロザリアは、はっとしてジュリアスの顔を見る。
「それだけしか食べないのか?」
久しぶり−−二年ぶりに会ったジュリアスはしかし、相変わらず親より口うるさくロザリアに言う。
「……もう充分」
そう答えてロザリアは、ナプキンで口を軽く拭った。だがジュリアスがそう言ったのも無理はない。ロザリアは、コラがルームサービスに頼んだ魚介類のオーブンサンドの中のひとつをつまんだだけで、後は再び画面を見始めたからだ。
本当は、ジュリアスと思い切り話がしたい。そして今すぐにでもここから飛び出し、あの気持ちの良い海の中に浸って思い切り泳ぎたい。けれど、この契約書をきちんと確認しなくては。だって、あの弁護士に任せっきりにはできないもの。
わたくしが……このカタルヘナ家の主であるわたくしが、目を通しておかないと。
「ですが、ロザリア様……」
おろおろとしたコラの声を遮るように、背後でジュリアスの声がした。
「では私は、海へ泳ぎにでも行くことにしよう」
え?
「ほう、泳がれるのですか?」
父が驚いた声で言う。
「もちろん、そなたとチェスもするぞ。とりあえずは……あの小屋まで泳いでからだ」
ええっ?
「あの小屋……ですか? まだあったのですか?」
「ああ、あるとも。プールばかりで、海で泳ぐのはこれが初めてだから……楽しみだ」
そうジュリアスが言って、座っていた椅子から立ち上がる動作の音が聞こえた。
もうロザリアは我慢できなかった。
「ま……待ちなさい、ジュリアス!」
思わず振り返ってロザリアは叫んでいた。
「ロザリア、もう少し口の利き方に」
さすがに父が注意しようとしたが、ロザリアはそれを押し退けた。
「言っておきますけどね!」同じく椅子から立ち上がり、ジュリアスを睨みながらロザリアは続ける。「あそこは息つぎなしでちょろちょろ泳げる、というレベルの人が行ける場所ではないのよ?」
「そのようなことはわかっている」
至極真面目に−−これ以外の表情がないように−−ジュリアスが言う。
「ではな」
そう言って踵を返したジュリアスの背に向かいロザリアは、気がつけば大声で叫んでいた。
「わたくしも行くわ!」
そう叫んでしまってから、ロザリアはしまった、と思った。
契約書が……!
だがジュリアスは、ロザリアの方を振り返りもせず「好きにするがよい」と言い捨てて行ってしまったので、カッと頭に血が上った。上ったままロザリアは、どすん、と椅子に座り、先程ジュリアスから指摘を受けた第五条の箇所をすさまじい速さで修正すると、通信装置に接続した。
「ロザリア様……」
心配して声をかけようとしたコラの声が途切れた。画面にあの、憎らしい弁護士の顔が現れる。
休暇を楽しまれていますかと、通り一遍の挨拶を向こうが言い切るより先にロザリアは、この契約書に目を通して、と言った。
呆れ顔で弁護士がそれを眺め始めたものの、すぐ顔を上げ、第五条を修正されましたな、と言った。あの箇所については、私如きがこう申してはお気に召さないかもしれませんが、と話し始めたところでロザリアは、小さく嘆息して言った。
「内容的にきつくて、相手先に、わたくしどもからの信用がないと思われてしまう……でしょう?」
弁護士は少し驚いたようだった。そして、そのとおりです、と言って初めてロザリアに対し微かに笑んで見せた。
思っていたよりもそれは、嫌な笑顔ではなかった。
「わたくしの考えではなくってよ」正直にロザリアは言った。「他の人……けれど、こういうことには長けた方からのご指摘を受けましたの。ですから……」
ロザリアは画面に向かい、頭を下げた。
「これからも、いろいろと相談に乗ってくださいな。わたくしも勉強させていただきますから」
一瞬、弁護士は絶句したようだった。だがすぐしっかりとした声で「はい」と答えてくれた。そして、後の細々した点で気になったことがあればお知らせしましょう、と言ってきたので、よろしく頼みますと答えて通信を切った。
そうしてロザリアが椅子から立ち上がり、振り返るとそこには父がいて、微笑んだまま頷いていた。それを見たとたん、ロザリアは急に空腹を覚えた。きっと、妙な安堵感のせいだ、と思う。
「……ジュリアスったら、本当にあの小屋まで泳げるとお思い?お父様」
勢いづいて、残っていたオーブンサンドのひとつをぱくり、と一口で放り込んでしまってから少しはしたなかったと思い、顔を顰めつつもロザリアは言う。
その様子に、くくと笑いながら父が返す。
「でも相当自信がおありのようだったがな?」
「平気ではったりを言ってそうだわ」
再び立ち上がると、到着してから置いたまま、まだ整理していなかったトランクから水泳に必要な物を取り出しながらロザリアは言う。
けれど父はもう、ただ笑っているだけだった。
やはり、はったりかもしれない……。
ロザリアは、ジュリアスの顔を見つめてそう思った。思ったものの、ふと目をジュリアスの躰全体に転じてぎょっとした。
水着をつけている以外はまさに、美術館で観る大理石の美しい裸体像のような−−と、我ながら陳腐な感想が頭に浮かび、ロザリアは赤面した。
泳ぎに来たのだから、身につけているものが水着だけなのは当然だ。だがつい二年前までずっとあの、身をすっぽりと覆った白いトーガ姿を見慣れていた目で、今のジュリアスの姿−−必要最小限の布切れを身につけているだけの−−を見ることはとてもできそうになかった。
けれどここは海で、他にいくらでも同じような水着姿の男性は多く、しかも何度も来ているのだから、女子校出身であってもロザリアとて、充分見慣れているはずなのに。
「……そんなことより!」ジュリアスを直視できないまま、ロザリアは言う。「ジュリアス……あなた、本当にあの小屋まで泳ぐつもり?」
「もちろん」
平然とそう答えてジュリアスは、深呼吸をする。どうやら泳ぐ前の運動は終わりらしい。
「……信じられないわ」
「別に、信じずとも良いが」
作品名:あなたと会える、八月に。 作家名:飛空都市の八月