あなたと会える、八月に。
◆7
パシャッ、と水の弾ける音がした。
昔、この海でとにかく水を切って泳ぐのはカタルヘナ家の女たちだけだった。当時、ロザリアの母は目を保護するためのゴーグルもつけずに泳いでいた。
わたくしもあまり、あれを使うのは好きではない。だって目のまわりにくっきり痕がつくし、それに……頭が痛くなるわ。
波が打ち寄せるあたりまで歩を進めるとロザリアは、少し遠くなった水しぶきを見やる。
確かに、泳いでいる……わね。
水しぶきの上がり具合を見ても今日は、以前のように潜水ではなく水面を泳いでいるようだ。あの飛空都市の川を潜水で進んでいたことを考えてみても、ジュリアスがそれなりに泳げること自体は間違いない。
思えば、ジュリアスが水泳を覚えようとしたきっかけは、ロザリアの父だった。
お父様は……お母様とわたくしが泳いでいるのを海辺の砂浜から眺めるのが好きだったお父様は、お母様が亡くなってから海へ行くことをやめてしまった……今、何故、海へ行く気になったのかはわからないけれど。
そのお父様の代わりに、あなたが溺れたりするようなことがあれば助けられるようになりたいと仰っていました、とロザリアはリュミエールから聞いていた。
そういえば、とロザリアは思う。
ジュリアスもゴーグルなしのようだけど、大丈夫なのかしら。リュミエール様は……おおよそゴーグルなんて、つけそうもないものね。
そのようなジュリアスへの心配の気持ちの一方で、久しぶりに海の水に触れ、徐々にロザリアの気分は高揚する。思い切り泳ぎたいという思いが膨れ上がり、腰ほどの深さまで来たところで、水の中へ、一気に躰を沈める。
ああ、素敵!
海の中はとても気持ちが良いのよ。
水を掻く。
腕が、躰が、前へ前へと突き進む。
自分の腕の、足の、巻き起こす水流が心地良い。
ロザリアはそうやって水を掻きながら息をつぎ、その合間に顔を正面に上げてあの小屋の位置を確認する。今日の海は穏やかだから、少々の潮の流れにも負けず、ロザリアは真っ直ぐ小屋へ向かって−−
はっ、と気づく。
小屋より先にある−−いるはずの『目標』が、いない。
もしかして……いつの間にか抜いてしまったかしら。
それはジュリアスには悪いが、充分ありえることだった。
慌てて泳ぐのをやめてロザリアは、両腕で水を掻きながら頭を水面から出して周囲を見回す。
そして。
まあ……あんな所に!
それほど距離が離れている訳ではなかったのでロザリアは、ジュリアスの十八番を取るが如く潜水してそこ−−ジュリアスのいるらしい場所へと向かった。
ジュリアスは、時折口をぽかりと開け、一方で空から降り注ぐ強烈な陽射しを避けるため目を閉じて、水面で浮いていた。
海水が塩辛いということは知識としてはわかっていたが、これほどのものだとは思わなかった。もちろん海水を、飲みたくて飲んだ訳ではない。やはり息つぎが上手くいかなかったのだ。最初のうちは調子が良かったものの、プールと異なり、海には波があるのだということもジュリアスは先程初めて実体験した。横からの波のあおりで、ぱっ、と口を開いた拍子に海水の飛沫がもろに口へ入り込んでしまったのだ。しかも、顔に垂れてくる水滴が目に入るとひりひりと痛む。
プールの方が良い……リュミエールはプールの水にはとくに気を使っているらしいし。
そう思いつつ、リュミエールから教わった、究極の泳法−−泳法というよりは休息方法なのだが−−仰向けで浮いてみた。こうしていても波のせいで情け容赦なく塩味の水滴は目に、鼻に、口に入り込んでくるけれど、プールのときよりもずっと浮きやすく、しかもいつもの室内プールとは異なり、全方位、青い空であることがとても気持ち良い。そういう訳で、やはり海も悪くない、とジュリアスは思い直していた。
ロザリアはどうしただろう、と思う。
本来ならば砂浜から見守っているけれど、今はそれどころではない。なにせ、ここはもう、ジュリアスの足すら届かない場所なのだ。まあこうしていて、ある程度休息できたらまた泳ぎ出せば良い−−
すぐ側で、ざばっ、と水音がした。はっとして目を開いたジュリアスは、その飛沫をまともに目に受け、呻いた。
「ここまで泳いだことは誉めて差し上げるけど」いきなり耳の近くで声がした。「こんな所でクラゲみたいにふらふら漂っていて、いったいどこへ行くつもりなのかしら?」
目を閉じたので姿は見えないが、このような『意地悪』を言うのは彼女しかいなかった。
「……ロザリアか、もう少し静かに」
そこまで言ってジュリアスはすぅっと息を吸い込む。話すと躰が沈むからだ。
「喋らなくて良くてよ」
呆れた口調で言うロザリアの声に、ジュリアスはいったいどうやってロザリアはこのように長く喋ることができるのだろうと思って、どうにか開いた片目で声のする方向を見た。
顔だけ海面から出している。そういえばリュミエールもジュリアスに向かってこのような体勢で喋っていたことがあった。
立ち泳ぎか……便利なものだな。早く私も修得せねば。
「ねえ、ジュリアス……ずいぶん、小屋とは違う方向へ来てしまっているようだけど?」なおもロザリアは言い続ける。「海には潮の流れっていうものがあること、リュミエール様から教わらなかったのかしら?」
「もちろん教わった」いちいち空気を吸い込みつつ、ジュリアスは細切れに話を続ける。「教わったがこうしてしばらく休んで」再び吸い込む。「また泳ぎ出せば」
まだ続きを話そうと息を吸ったところで、横から大きなため息と共にロザリアが、それ以上話すことを止めさせるかのように言った。
「その間にもっと流されてしまうわよ」
そう言うなり、ちゃぷん、と小さな水音と共にロザリアの気配がなくなった。
呆れて先に行ってしまったのか、とジュリアスは思ったが、それはほんの少しの間のことだった。
いきなり顎の下から温かいもの−−腕が通され、肩を掴まれた。
「うぁ……っ!」
反動でジュリアスの頭が沈みかけた。だが、それはいたって柔らかなもので受け止められた。
「ちゃんと息を吸って浮いて!」
頭上からの怒号に思わずジュリアスは、すぅぅっと息を吸った。だが頭を受け止めているものが何なのか思い至り、息がそのまま止まりそうになった。
「よくもまあ、こんなレベルで『小屋まで泳ぐ』なんてはったりを言ってくれたわね!」ロザリアの悪態は容赦ない。「リュミエール様に『もっとしっかり鍛えてください』ってお願いしなくては!」
そうしてしばらくの間、ジュリアスの耳に聞こえたのは、ちゃぷん……ちゃぷん……と繰り返されるロザリアの、空いた片手で水を掻く音だけだった。ときどき足に、水中で柔らかく上下に動くロザリアの足が擦れたり、あるいはそれが起こす水流を受けたりしている。
頭は……あのままだ。時折水がそこへ入り込んだときだけ、ちゃぷ、と耳のすぐ近くで別の水音がする。
少し、落ち着いた……というには程遠いが、とりあえず状況には慣れてきたので、ジュリアスはぽつりと言う。
「すまない……」
そう言いながらも、思っている。
なんて柔らかいのだろう。
なんと心地良いのだろう。
作品名:あなたと会える、八月に。 作家名:飛空都市の八月