あなたと会える、八月に。
◆12
「……相変わらずお強いが」
チェスの駒をどこへ置こうかと、腕を組んで算段している老人の言葉にジュリアスは、同じく盤面を見ていた目を上げ、その顔を見る。
「手が、何とはなしに穏やかになられたような気がしますな」
「そう……か?」
じんわりと足下から来る熱で、脇に置いた冷水の入ったグラスが露をいっぱいに浮かせて底に置かれた敷物を濡らしている。その露を指で払いながらジュリアスは、老人が次の駒を置くのを待ちつつ、こくりと飲んだ。
「それにしても……海で泳がれませんのか?」
「これからは午前中にな。午後はこうしてそなたとチェスをしたり、音楽室へ行ったりしようかと」
「嬉しいことですな」ふっと笑って老人は尋ねる。「ですが……それはまたどうして」
「午前中はヴァイオリンの名手に音楽室を譲る。今日はたまたま寝坊したようだったから使わせてもらったが」
「ああ」笑って老人は、こつ、と駒を置く。「チェスはともかくピアノは……もっと精進なさると良いでしょうな」
「回りくどいな」苦笑してジュリアスは言う。「下手だ、と率直に言えば良い。自分の腕前はよく心得ている……ああ、今朝窓を開けて弾いていたのはたんに、寝坊な娘への嫌がらせだ」
「『嫌がらせ』ですか?」吹き出して、老人は続ける。「ですが娘は、ご多忙でいらっしゃるのによくあそこまで弾けるよう練習されたと、感心しておりましたよ」
「私の前では、ひと言も誉めてはくれなかったがな」鼻で笑うと今度はジュリアスが駒を移動させる。「そなたやコラにも聴いてもらうのだからもっと練習するように、と言われてぞっとしている」
「はっはっ、娘の指導はそれはもう、厳しいでしょうな」
「それが嫌さに、泳ぎの方は『鬼の居ぬ間』の午前中にしようという魂胆だ」
「それは酷い」
そう言いながらも老人は笑っている。笑いながらふと、それほど遠くまでは見通すことができないであろう目をあの、小屋のある方へ向ける。
ジュリアスが双眼鏡を持たせると老人は、ゆっくりとそれを持ち上げ、覗いて頷いている。
「もう、小屋へ着いていますよ。早くなったものだ……」しみじみと彼は言う。「本当に妻にそっくりだ……」
彼から双眼鏡を受け取るとジュリアスは、小屋の前のデッキで背伸びをしているロザリアの姿を見る。セパレートの水着姿で綺麗に弓なりにしなった躰の線が、双眼鏡を通して見えた。
「そういえば」もう少し眺めていたい気持ちをすぐに払い除け、双眼鏡を脇に置くとジュリアスは老人を見た。「そなたはもう……この海へは来ないと言っていたのではなかったか?」
「ははぁ」盤を眺めていた目をジュリアスに転じ、老人は言う。「娘が気兼ねをしましてね。実は、十六日の夕食にのみ伺うつもりだったようです」
「えっ」
「ご存じのとおり、仕事でカリカリしていたこともありますが……一番の理由は、私の躰の具合があまり芳しくないことにありまして」
苦笑しつつ老人は、再び盤に目を落とす。
「本当はあなたに……少しでも早く、そして長く、会いたくてたまらなかったでしょうに」
その言葉に、どのような表情をして良いかわからず、ジュリアスもまた盤を見る。
「ですから、役立たずの父親としては、少々体調が悪かろうと、過去を思い出して寂しくなろうと、可愛い娘のためにエイヤ、と参った次第です。そうしましたら」
顔を上げて彼はにっこりと笑う。人なつこい笑みは、彼にまだ妻と幼い娘がいた頃のままだ。
「あなたが駆け寄って来てくださったのです。私は本当に嬉しかった」
「……コラにはあまり喜ばれていないようだが?」
今、ここにいないコラ−−老人から席を外すよう言われ、今ごろはたぶんホテルで休んでいることだろう−−を引き合いに出すのは少し気が引けたけれど、そう言うことでジュリアスは、老人からの素直な謝意への心の動揺を押し隠す。
そなたたちに会いたいと欲しているのはむしろ……私の方なのに。
「乳母については失礼しました……ですがコラはジュリアス様、あなたに期待しておるのですよ」
「期待……?」
「もしくは『可愛さ余って』といったところですかな」くく、と彼は笑う。「私とは別口で、娘のことを心底心配しているので、つい、ね」
そう言って彼がまた双眼鏡へ手を伸ばしたので、ジュリアスが渡してやった。軽く会釈して老人は、それを使って泳ぐロザリアを見る。
「もしかして……」老人は双眼鏡を見たまま言う。「ジュリアス様は今、水着を着用されていますか?」
一拍置いてジュリアスは、「ああ」と短く応えた。
「今はとても助けに行くことのできるレベルではないがな……一応は」
双眼鏡から目を離して脇に置くと老人は、ふっと朗らかな笑みを浮かべた。
「ジュリアス様」
「……何だ?」
「あなたの許へ物をお送りする場合、どのようにすればきちんとあなたに届きますかな?」
何を? とジュリアスは思ったけれど、わざわざ聖地にいる自分へ送ろうというからにはそうしたい事情があるのだろうと思い返し、尋ねることは控えた。
「係の者に、そなたからの物は即刻私の許へ届けるよう申しつけておこう」
「恐れ入ります」
そう言って老人は駒を置いた。思わずジュリアスは顔を顰める。
「そなたは反対に……詰めが甘くはなくなったようだな」
「お褒めいただき、ありがたく」
く、く、と掠れた声を漏らしつつ老人が笑う。
程なく、波打ち際にロザリアが現れた。
「……上がってきたようだな」
「ええ」
ジュリアスが、持っていた懐中時計を確認していると、向かい側で老人が声を上げて笑っている。
「律儀に計ってくださっているとは!」
「別にもう、制限時間を設けている訳ではない。だが目安にはなるであろう? ああ……確かに速くなったな」
立ち上がるとジュリアスは、タオルを持ってテントの外へ出た。出て、小さくため息をつく。彼女が海から上がったとたん、一斉に周囲の男たちからの視線が集まり、周囲がざわめいているのだ。
そのロザリアは、ジュリアスを見つけると、にっこり笑って小さく手を振った。あのように、少しあどけない顔をされると『子ども』の頃のままで、思わずこちらの頬も緩んでしまう。
そのときカタリ、と背後から音がした。見ると、老人が車椅子を動かしているのでジュリアスは、その補助をすべく戻った。
「ありがとうございます」
頭を深く下げて老人は、ジュリアスと同じく、テントへ帰ってくるロザリアを見つめる。
「こうして娘と、またここへ来ることができるとは思いませんでした……」目を細め、目尻に皺を寄せて老人は笑む。「もう会えないと思っておりましたから……」
「……気弱になるな」ロザリアの方を見たまま厳しく、ジュリアスは言う。「そなたにはロザリアを、一人前の主にしなければならないという使命があるのだからな」
「はは、そうですな」
軽く笑うと老人は、ぽつりと言った。
「娘には申し訳ないが、私は本当に、娘が帰ってきてくれて嬉しかった。どれほど娘が女王試験のことや、我が家のことで辛い目に遭うとわかっていても……それでも私は嬉しかった。ですからどうか」
作品名:あなたと会える、八月に。 作家名:飛空都市の八月