あなたと会える、八月に。
◆5
昼食後、両親を送り出してロザリアはヴァイオリンを持って音楽室へ向かった。
ところが、微かにだがピアノの音がする。ただしそれは音楽室のピアノではなく、ホテルのロビー奥にあるラウンジから聞こえてくる。この時間帯はラウンジも休憩時間だったはずだけど、とロザリアが思っていると、そのピアノの音はやがて、ロザリアの中で聴き慣れたメロディを形作り始めた。
『海』!
まさに自分が毎日弾いている曲だ。それほど高名な曲ではない。それに弾き方がどことなく頼りない。片手でぽろぽろと弾いているようだ。
まさか、とロザリアは思ってみた。
まさか、私が弾いているのを聴き取った?
ラウンジには、ホテルやラウンジの従業員しかいなかったが、その奥のピアノを弾いているらしい黄金色の長い髪の人物と、その脇に立つ幼い男の子の姿が見えてきた。
『彼』だ。
だがそれとは別の意味でロザリアはぞくりとした。
その人物自体が微かに……輝いているように見えたからだった。休憩時間で照明を落としてあるラウンジの中に在ってそれは奇異なことだ。だからロザリアは思わずギュッと目を閉じて再びゆっくりと開いてみた。だがそこにはもう、あの輝きは見られなかった。
それでも、ときどき少年の方を見ている様子が見てとれた。横顔にまたロザリアはどきりとした。
あの老婦人たちの言ったとおりだ。
まるで彫像が動いているような気がした。それはロザリアが時折連れられて行く美術館で見られるような彫像とはまた別の意味で美しい−−決定的な違いは、一瞬見せた微かな笑みがとても柔らかくて優しげなこと−−造作だった。
一瞬凍りついたようにその横顔、その姿に気を取られていたロザリアの気配に気づいたのか、ピアノを弾く手を止めて『彼』が振り返ろうとしたので、ロザリアは慌てて、ケースからヴァイオリンを取り出し、『彼』が弾きかけていた箇所からヴァイオリンで一気に弾き始めた。
少年が喜んでロザリアの側に来た。弾きながらロザリアは、その少年の目が赤いことに気付いた。泣いていたようだ。どうしたのだろう、と思いつつふとロザリアは顔を上げた。
『彼』が完全に躰をこちらに向け、自分を見ていた。少し暗くて判別がつかないが、青い目の持ち主らしい。怖いほど整った顔立ちを正面から見てロザリアは緊張した。コンクールや演奏会で、ロザリアは多数の人々の前で舞台に立ったことも何度かある。度胸はあるつもりだが、それでも『彼』の視線には気圧されるようなものを感じずにはいられない。
(いったい……何者なの?)
短い曲だからすぐ終わる。終わったとたん、ずっと『彼』を見ていたので気付かなかったが、いつの間にか聴衆を集めていたせいで喝采が起こった。
そしてその喝采の拍手の中に、『彼』もいた。微かに笑みを浮かべていた。一気にほっとしてロザリアは小さく息を吐いたが、『彼』がピアノの前の椅子から立ち上がってこちらへ向かってきたので再び頬を引きつらせてしまった。
「そのように緊張しなくともよい」苦笑して『彼』が喋った。「毎朝の素晴らしい演奏はそなたのものであったか……ロザリア?」
だからもちろん、誰が自分の名前を知ろうとロザリアは別段気にはしていない。けれど、『彼』が自分の名を知っていることにロザリアは素直に驚いてみせた。
「あ、あの……どなた……ですか?」
ロザリア・デ・カタルヘナとしたことが、妙に狼狽えた質問の仕方をしてしまった、とロザリアは心の内で歯噛みしたが、どうも彼のまなざしの前では上手く話せないようだった。そしてそれは極致に達した。『彼』が覗き込むように少し腰を屈めてじっとロザリアの顔を見つめたからだ。側で見るとやはり瞳の色は青かった。
何か小さく呟いたようだった。早口でそれはロザリアには聞き取れなかった。
「私はジュリアスだ。それでもしも良ければ」真っ直ぐ立つと『彼』−−ジュリアスはそっと……極めてそっとロザリアの肩に手を置いた。「もう一度最初から、あの曲を聴かせてくれないか?」
「『海』を、ですか?」
「『海』というのか。なるほど、この地にふさわしい曲ではあるな」ジュリアスはふっと笑った。「そうだ。『海』をもう一度。私の稚拙なピアノの音でなく、そなたの達者なヴァイオリンで」
本来ならば、きちんとお辞儀をしておもむろに演奏を始めるべきだ。だがロザリアは、まるで躾られていない子どものように−−自分は違うと思っているのに−−ジュリアスを見つめたまま、操られたようにヴァイオリンで『海』を弾き始めた。
作品名:あなたと会える、八月に。 作家名:飛空都市の八月