あなたと会える、八月に。
◆10
ロザリアの目の前には、ジュリアスの着ているシャツの生地しか見えない。そうは言っても、もう少し顔をずらせば、ロザリアの後ろにいたコラと目が合うかもしれない。それに、ゼフェルだっているはずだ。それなのに。
『私から、そなたの顔は見えない』ですって?
ジュリアスったら……なんて、おかしなことを言っているのかしら?
わたくしの顔が、ジュリアスに見えないことでいったい、何になると言うのかしら?
しかしその答えを、ロザリアは知っている。
知っていて、わからない『ふり』をしている。
だが、頭で考えていることと異なり躰は、感情は、否応なしにその『答え』めがけ、突進していく。
ここで、泣いても良いのだと。
ここなら、ロザリアの泣き顔を見る者はいないと。
泣いて良いのは……安心して泣けるのは、あの『庭』でしかないと思っていたのに。
ジュリアスによって前へ回された両手で、ぎゅっとジュリアスの腹の辺りのシャツを掴む。そうすることで背により強くあてがわれた頬へ、薄いシャツの生地を通してますます温かみが伝わり、頑なに留まり続けるロザリア自身を、そっと後押しする。
そう言えば十五歳のとき、海の中で向けられた背中に額を当てたことがあった。あのときも温かい、と思った。
「う……っ」
もう留まっていることなど、ロザリアにはできなかった。
最初はじわり、じわりと滲むように流れ出した涙は、やがてジュリアスのシャツを、自分でも信じられないほど濡らしていく。その間、ジュリアスからはひと言も言葉をかけてこない。本当に彼は、そこにいるにも関わらず、それこそ、いない『ふり』をしているのだ。
いつの間にかロザリアは、声を上げていた。
それに気づいたのは、喉が痛くなってきたからだ。けれど、涙は止まらなかった。
お父様。
そう……お父様は言った。
「よりによって『八月』で申し訳ない」と。
「最期の最期までおまえの邪魔ばかりして、おまえの楽しみを潰してしまって」と。
「だから必ず来年こそは海へ行くように」
そして、お父様は笑いながら言った。
「コラ……ホテルの予約を頼んだよ」
それが本当に最期の言葉だった。
コラは確かに予約をしたと言った。
わたくし……行くから。来年、ちゃんと海へ行くから。
だからそんなに謝らないで−−
そのときだった。
前に回した手の上に、ぽたり、と落ちてきた水の感触にロザリアはぎょっとして、思わずもう片方の手を抜こうとした。
だが、再びその手首をきつく掴まれ、それは阻まれた。けれどその間にも次々と雫は落ちてきて、ロザリアの手の甲や指を濡らしていく。
……ジュリアス!
呼びかけてみたものの声にならない。あまりにも泣き過ぎて声が掠れてしまったようだ。だが、そのようなことよりロザリアは、手に落ち続ける雫に神経を集中させる。やがて、少し手首の拘束が緩んだところでロザリアは、ゆっくりと片方の手をジュリアスの胸へと這わせると、揃えた指先で、とん、とん……と軽く、静かに叩き始めた。
そう。
それはまるで、泣く子をあやし、なだめているような仕草だった。相変わらず背の方では、止めきれない嗚咽を繰り返してはいたけれど。
その手の温かみを胸に感じつつジュリアスは、泣くことを我慢していたのは何もロザリアだけではなかったことを、今更ながら自覚した。
そうか。
私も悲しかったのか。
思いがけず知り合った『チェス仲間』たちと話をしているうちに、まるでまだ『彼』が生きているような気がしたけれど、祭壇の花の中、『彼』はとても静かに眠っていた。眠ったままで、目を開かなかった−−
ロザリアの手の動きが心地よい。
それに、彼女の方がジュリアスよりもずっと小柄なのに、背から回された手と、背に当たる彼女自身の温かみと柔らかな感触に、ジュリアスはとても安堵する。
悲しくてたまらない気持ちに変わりはない。
それでも。
ふと、視線に気づいてジュリアスは、エア・カーの方−−ゼフェルを見た。もらい泣きでもしてしまったのか、赤い目−−赤かったのは確か瞳だけのはずだが−−をして、ゼフェルがこちらを見ていた。
私こそ、泣き顔を見られてしまったのだなとジュリアスが思い至ったところでゼフェルはエア・カーに乗り込み、言った。
「勝手に帰ってきやがれ」
そして、極めて静かにエア・カーを起動させるとゼフェルは、ジュリアスを置いて行ってしまった。
一方コラもまた、そっとその場から離れた。
もうだめだ。
もう、止めようもない。
ロザリア様は、金輪際ジュリアス様しか見ない。
コラは、ロザリアにはこちらにいる−−聖地ではなく−−今となってはロザリアと同じ只人の、良い伴侶を見つけ、穏やかに、幸せに暮らして欲しいと願っていた。何故なら……長い時を過ごす守護聖であるジュリアスと、『女王候補』でなくなった、只人のロザリアとの、時は重ならないから。それは少しずつ近づいてきたけれど、あっという間に離れていくものだから。
ジュリアス様は『八月にだけ、会える人』であって、後はずっとお一人のまま……ロザリア様は年を取り、やがて。
そのときはたして、今日のようにジュリアス様は側にいてくださるというのか?
それが『八月』でなかったら、ロザリア様は。
けれど。
『家族』もどきの、楽しい時間だけを過ごしてきた今までとは違う。
お二人は悲しみを共有し、それを癒し合うことすら共有されてしまった。
だからそれはロザリア様だけではない。
どこまで自覚されているのかわからないけれど……たぶん、ジュリアス様もそう。
もうあれでは、離れようがない。
離しようも、ない。
何度も何度も手に握り締めたハンカチで涙を拭いながらコラは、ようやく主との『別れ』の挨拶へと向かう。
向かいながら、心の中で呼びかける。
どうお思いだったのですか、あなた様は。
どういうおつもりで、娘のロザリア様を、海へやる−−ジュリアス様と会わせる−−のですか?
目に入れても痛くないほど可愛がられた娘の幸せをいったい、どこに、誰に、望まれているのですか−−
作品名:あなたと会える、八月に。 作家名:飛空都市の八月