あなたと会える、八月に。
◆4
ぷかり、とロザリアは泳ぐのをやめて仰向けのまま海面の上、浮いて空を眺める。
なんてここの空は青くて綺麗なのだろう。わたくしが嬉しくても悲しくても、ずっと変わらず青いままで。
去年。
「ジュリアスには、関係のないことだわ」
そう言った瞬間の、ジュリアスの顔が忘れられない。
本当は、そんな言い方をするつもりなどなかった。ただ、いきなりジュリアスの口から彼−−大神官様から紹介を受けた方−−のことが飛び出すとは思わなかった。だからわたくし、内心とても慌ててしまって、つい。
でもわたくし……とくに他意を含めたつもりなどなかったの。
八月の、いつもの食事、いつものひととき。
そして八月だけでも、会えるジュリアス。
ちょっとした軽い気持ちで言った言葉。
そうね……子どもの頃、お父様から叱られて『つい』言ってしまったような感じ。
だから。
あんな、虚を衝かれ、呆然とした顔をさせるとは、思いもしなかった。
「そうか」
ジュリアスがぎこちなく微笑む。
「そうで……あったな。私には関係のないことであったな……『家族』でもないのに、よけいなことを」
その瞬間、側で控えめに食事をしていたコラが、「ロザリア様!」と小さく、きつく叫んだ。はっとしてロザリアが再びジュリアスを見たときにはもう、ジュリアスの顔には何の表情も残っていなかった。
ふとロザリアは思い出す。
光の守護聖として前に立つとき、彼は感情というものを一切排するときがある。そしてまさに今、そのような状態だった。
この、八月だけの『家族』でジュリアスの誕生日を祝う席でありながら。
食堂から、いつものように部屋までロザリアを送るべく歩いている間中、ジュリアスはひと言も喋らなかった。
何とか謝らなければ、とは思った。だがロザリア自身、いったいジュリアスが何をそれほど怒っているのか−−怒っているのであれば、むしろまだ良いのだけれど−−よくわからなかった。それにロザリアは、いったい何に対して謝るべきかもわからなかった。
関係ない、というのは、確かに突き放すような言い方で拙かったかもしれない。けれど、本当にもう関係のない話なのだ。もうあの話はとっくに終わってしまったことであって−−
部屋に着いてしまった。
ロザリアが振り返ると、いつの間にかコラの姿も見えない。そこにはただ、無表情のジュリアスが立っているだけだ。
何ともいえない焦燥感に苛まれ、ロザリアは何か言わねばと思った。今、言わなければ一生後悔するような−−。
ところが。
「ロザリア」
先に口を開いたのはジュリアスだった。
固唾を呑んでロザリアは、ジュリアスを見つめた。ジュリアスは部屋のドア越しに立ち、一瞬だけロザリアを見たけれど、あとはドアに視線を流した。
その行為にロザリアはぎょっとする。
わたくしの顔を見ない。
思えば長いつきあいだった。だからその視線の変化の意味を、ロザリアは理解している。
こういうことをするのは、悪い話のときだ。
ジュリアスがしたくない……話のときの。
思った瞬間、ジュリアスが告げる。
「もしも……そなたが八月に私と会うことについて、負担に思うようであれば」
……何を。
「無理を……するな」
……何を、ジュリアスが言っているのか、ロザリアにはわからなかった。
ぶくぶくと、息を吐いてロザリアは、海面から海中へと沈む。沈んだのは、思わず思い出してつんと鼻にきた思いを断つためだ。
そう。
わたくしはジュリアスを傷つけた。
そして思う。
いったい、いつからなのだろう。
いったい、いつからわたくしは、ジュリアスを傷つけることのできる存在になっていたのだろう。
あまりの衝撃にロザリアは、口も利くことができぬほど驚いていた。だがその間にもジュリアスは、淡々と言い続けている。
「今まで、誕生日を祝い続けてくれたことに、とても感謝している」
猛然とロザリアは、首を横に振る。
「そなたや、そなたの父や母と過ごした時間は、本当に有意義であり、楽しかった」
嫌よ! 過去の話にしないで!
わたくしはまだ、ここに、あなたの目の前にいるのよ?
「けれどもう良いのだ。幼い頃の約束など、気にする必要はない」
わたくしはそんなこと、全く、思いもしていない!
何を言ってるの?
あなたと会える八月を、どれほどわたくしが楽しみにしているのか、あなたにはわからないの?
一年に一度の、この貴重で、大切なときを、どれほどの思いで待ち続けていると思うの?
だがジュリアスは、ドアの方を見たままだ。
……ああ、わかっていないのは……むしろ、わたくしの方だったのかもしれない。
だからあんな不用意な言葉を言ってしまったのだわ。あなたと八月に会えることをわたくしは、いつの間にか当たり前のように思って、あんな言葉を。
何とかしなければ、と思う。
何とかして、ジュリアスの誤解を解かなければ。
どうしてわたくしは、こんなときにも泣かないの?
無様であってもかまわない、腕にすがって、泣きわめいてでも、止めなければ。
でないと、ジュリアスと、会えなくなってしまう−−
不意に、ジュリアスの視線がロザリアへと戻った。
それどころか、目を大きく開いてこちらを凝視している。
何だろう、とロザリアが思ったときには、ジュリアスの右手が動いてロザリアの、左の頬に添えられた。軽く上に持ち上げられたかと思うと、ジュリアスの顔が近づいてきて、左の目尻に口づけられた。もっともそれは、口づけられたというよりは、すっ、と吸われたような感じだった。そして唇は、額をなぞるようにして右の目尻へと動く。
「……きゃっ」
思わずロザリアは小さな悲鳴を上げ、肩をすくめる。
その瞬間、思い出した。
目尻に口づけられたことはある。十七歳のとき、飛空都市の滝の上流で。
あのときわたくしは……泣いていた。
ということは、わたくし……今、泣いているの?
その間にもジュリアスの唇はロザリアの、目尻から目の下、そして頬へと動いていく。軽く吸われたり、ときにはぺろ、と舐められたりして、何だかとてもくすぐったい。
だめよ、ちゃんと謝らせて……わたくし、泣けば済むとは思っていないから。
そう思って、再び口を開きかけたそのときだった。
思わずロザリアは、片方の手でジュリアスの腕を覆うシャツを掴んだ。そしてもう片方の手でジュリアスの肩を、懸命に押し返そうとした。だが、とてもではないが抵抗できなかった。何故なら、右手は頬に添えられたままだったけれど、左手で腰を、強く抱き寄せられていたから。
そして口は、相変わらず利けないままだった。
唇どころか舌まで……息までも、きつく絡み取られてしまっていたから。
作品名:あなたと会える、八月に。 作家名:飛空都市の八月