あなたと会える、八月に。
◆9
小屋自体は、丸太が組まれただけのいたって簡素な造りのものだ。
「遠目で眺めていたよりも……存外、新しいような気はするが」
ジュリアスは小屋へ入るなりそう言って、中を見回そうとした。だがそのとたん、う、と顔を顰めてしまう。
「大丈夫?」
横でロザリアが心配げに声をかけてくる。
デッキにいた二人は、空から降ってくるような強烈な熱から逃れるため小屋へ入ろうとしていたのだが、いっこうに立ち上がろうとしないジュリアスに気づいて、ロザリアが振り返った。
「ジュリアス?」
「……痛い」
「え?」
「躰中が痛む」
泳いでいる間は、確かに疲れてはいたけれど、それなりに躰を動かすことはできた。だがやはり無理が祟ったのだろう。さすがに、全く動かすことができないというところまでには至らなかったものの、ロザリアに腕を引っ張り上げてもらってようやく立ち上がることができたという始末だった。その、ぎくしゃくとした動きで小屋の中へ向かう様子にロザリアが、悪いと思うけど、と言いつつくすくすと笑う。
「ジュリアス……そんな調子じゃ、明日はもっと痛むわよ?」
「……そうであろうな」
苦虫を噛み潰したような顔でジュリアスは返す。全くもって無様なことだ。次には、鍛え方が足りないのだとロザリアから言われるに違いない。
ところが。
ロザリアは、泣き笑い−−いや、むしろ泣きそうな表情になってジュリアスを見ていた。気にするな、と言おうとしたところでロザリアが、ジュリアスの腕を取ると自分の肩に回してジュリアスをもたれさせた。
「ロザリア……」
「安心して。船を呼び出せるから」
そう言ってロザリアは、小屋の壁までジュリアスを支えて連れて行くと、そこでジュリアスを座らせるべく腕を放した。
眩しい陽射しの中から、一転、屋根の下。陰に入るとかなり涼しく感じられる。ずるずると腰を落として床の上に座るとジュリアスは、ふぅと一息ついた。火照った背中に壁が、ひんやりとして気持ち良い。
一方ロザリアは、床の上に置いていたポーチを手に取ると、その中から小さな通信装置を取り出した。いつもの、ジュリアスが海岸で待機しているときとは異なり、単独でここまで泳いで来たので、携帯用のポーチを持参していたらしい。
「ホテル辺りの海岸からは、夕方以降でないと船は出せないけれど、別の海岸からなら、呼び出せば出してくれるのよ。海水浴客のいる所からは別方向からこちらへ来ることができるから」
そうして通信装置のつながった相手と、きびきびとした態度で話をしている様子を見るだに、ジュリアスの知らない、一人の大人の女の顔に変わっていく。
二十六歳。同い年……か。
連絡をつけるとロザリアは、ジュリアスの前にぺたりと座って、ぐるりと中を見回す。見回して、再びジュリアスを見る。
「この小屋、小ぎれいでしょう?」
「……ああ」
「隔年、小屋ごと入れ替えているのよ。陸地で組んでおいて、観光客のいない季節の間にね。後は、水中で固定するの。そうしないと、とてもじゃないけど保たないって工事の人が」
「待て、ロザリア。それは……?」
ロザリアは笑ったまま、ぽんぽんと床を軽く叩きつつ言う。
「買ったのよ、ここ」
え、と小さく声を漏らしてジュリアスはロザリアを見る。
「……いつの間に」
「二十歳のとき」
「二十歳……だと?」
あの、葬儀のあった年。
「八月にここへ行けなかったから、その腹いせに」くく、と笑ってロザリアは肩をすくめる。「十九のとき久しぶりに来たら、あまりにもボロボロだったから管理しているところを調べて、話を聞いているうちに思いついたの。借金を抱え込んでいたけれど、何か楽しみがないと、と思って。でも」
笑いながらジュリアスを見るまなざしは鋭く、自信に満ちあふれている。
「ようやく……負債は完済したわよ」
なるほど。これがロザリアの、実業家としての顔なのだろう。父親が見込み、大神官が誉めていただけのことはある。それが見事に開花した……ということか。
とても……先ほどまで、ジュリアスに腕を掴まれ、引き寄せられたぐらいで震えていたとは思えないほど。
そうしてジュリアスはひっそりと、ひとつの可能性を諦める。
良くやった、と思う心の片隅で、やはりと思う自分の微かな落胆をジュリアスは軽蔑した。
ロザリアは、そのようなジュリアスの表情の変化を敏感に感じ取っているようだ。だからそれを払拭すべくジュリアスは「良くやったな」と、口に出して言った。
それはそれで、偽りのない本心だ。
本当にロザリアは良くやった。
そう。ロザリアがロザリアらしく生きていくことは、今この時、この場所にこそあるのだ−−聖地ではなく。十七歳の頃も、そして同い年となった今もそれは変わらない。
「ただ……買ったことがばあやに知れたとき酷く呆れられて、なだめるのに苦労したわ」
誉められて照れたように言ったロザリアの話を、ジュリアスは苦笑して聞いていたが、ふと、先ほどまで話していたことを思い出した。
「そう言えば……コラはどうした。そなただけ海へ行かせて、首尾良く留守番、という訳か?」
そうジュリアスが言ったとたん、ロザリアから笑みが消えた。そして視線を床に落とす。
「……ロザリア?」
「亡くなったわ……この春に」
ジュリアスは、一瞬声も出せなかった。だがすぐ気を取り直して尋ねる。
「何故……知らせなかった」
よもや『関係のないこと』とは言われまいと思いつつジュリアスは、ロザリアの言葉を待つ。
「ジュリアスには言わないでくれって。誰が悲しむのも見たくないけど、とくにジュリアスに、自分の死を目の当たりにされるのは、いたたまれないって」
その言葉にジュリアスは、ああ、そうか、と思い至る。
あのロビーのソファで、私が言ったことを……覚えていた訳か。
「……そういうことか」
「え?」
「あ……いや」
軽く首を横に振ってジュリアスは、思わずロザリアの顔と……手−−指先を見る。
「大丈夫よ」ジュリアスの視線に気づいたらしい。微笑んでロザリアは言う。「無理はしていないわ」
確かに、指先は震えてはいなかった。けれどロザリアは、再び視線を床に落とす。
「……あの、大神官様からご紹介いただいた方ね」
好ましくない話題を蒸し返すためか、ロザリアが早口で話し出す。
「ばあやが……気に入っていたの」
「そう……らしいな」
『私が生きている間に、ロザリア様が良い伴侶と結ばれることを』
それが夢だと、コラはジュリアスに言っていた。
「そのころ、ばあやがもう長くないってお医者様から知らされていたから……せめて最期ぐらいは安心させてあげても良いかと思って……」
その方と会ってみた、とロザリアは言った。大神官への義理もこれで果たせると思った。だが。
「わたくし、上手くごまかせたつもりだったけど……あなたの話を聞く限りばあやは、もうとっくにお見通しだったみたいね」
そう聞いてジュリアスは、コラとの話を思い返す。
「同行いたしません」と、きっぱり言ったその裏には、そういう事情があったのか。
作品名:あなたと会える、八月に。 作家名:飛空都市の八月