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飛空都市の八月
飛空都市の八月
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あなたと会える、八月に。

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◆9

 「何をしている! 早く戻らぬか!」
 ジュリアスが叫んでいる。波がずいぶん激しくなりつつあり、その音も大きくなってきているのに相変わらずよく通る声だ。ロザリアは海面に肩まで浸かったままじっとしてそれを聞いていた。
 ロザリアとて、早く海から上がりたかった。曇ってきたせいで水温が下がったのか、躰が冷えてきた。それに加え、久しぶりに長距離を泳いだので疲れきっている。けれどこれ以上、岸に戻れぬ事情が彼女にはあった。
 幸いもう、充分足のつく場所に戻ってきている。このまま歩いて上がれば良いのだ。だがロザリアは、両腕で自身を抱き締めるような格好のまま取り留めのない考えを頭に巡らせている。
 あの小屋で紐をもう一度調べて結び直しておくべきだった、とか、こんな紐だけの水着で荒っぽく泳ぎすぎた、とか、何もよりによって足のつかない深いところで外れなくても、とか−−。
 そう、下は大丈夫だ。幸い解けずには済んだ。だが上はもう、あるべきところに、ない。今ごろ波間をぷかぷかと漂っているかもしれない。
 ジュリアスの声が間近に聞こえる。心配してすぐそこにまで来てくれているのは嬉しいけれど……困った。このまま腕を組んで波や砂に足を取られぬようにしながら、ダッシュで駆け抜けるしかない。でも「どうした」とか言って腕を掴まれそうだ。そうなったら、どんなに罵倒されるか……いや、罵倒される方がまだましだ。呆れ果てて黙殺されたら……。
 ぶるり、と躰が震えた。
 今のロザリアには、無視されることが一番辛い。せっかく思い切り泳いで気持ちが晴れつつあったのに、我ながら本当に愚かしい……
 俯いて透明の海水に揺れて映る自分の腕を見ていたロザリアの耳に、異なる水音が聞こえ始めた。それはどんどんロザリアに近づいてくる。
 ハッとしてロザリアは、海水に浸かっていた顎を浮かせる程度にだが引き上げて、音のする方向を見た。
 「このような所で何をしている」
 「きゃっ!」
 驚きのあまりロザリアは後ずさりしたが、それでも何とか腕を組んだままにしておくことはできた。
 そして目線の先には、確か白かったはずの麻生地のパンツが半分以上海水が滲みてしまった状態で見えている。
 「ジュ……ジュリアス……?」
 腿のあたりまで海に浸かったまま、ジュリアスが仁王立ちになってロザリアの前にいた。
 「服を着たままだと、途方もなく歩き辛いものだな、海は」
 そうぼやきつつジュリアスはロザリアに手を差し出した。
 「大丈夫か? 怪我でもしたのか? それとも気分が悪くなったとか」
 「あ、ええ……わたくしは大丈夫。大丈夫だから、ジュリアスはもう戻って?」
 じりじり、と後ずさりを続けながらロザリアは、わざと明るく言ってみた。
 「何を言う。大丈夫ではなさそうだからここまで来たのだ。さっさと戻れ」
 ずぶ濡れになって来てくれたことに感謝しつつもロザリアは、そのつっけんどんな言い様に少しだけムッとしたが、どうにか言葉を荒くしないよう言うことはできた。
 「ありがとう、本当に……本当にありがとう。だから先に行って……ね?」
 だがロザリアが思っている以上に、ジュリアスはロザリアの性格と行動パターンを把握していた。しおらしい言い方のせいで帰るどころか、返ってずい、と前に進み出てきてしまった。
 「ここまで来て、先も後もない」そう言い放つと再び手を差し出した。「さあ、早く掴まれ」
 「だから大丈夫だと言っているでしょうっ!」
 たまらずロザリアは叫ぶと、水中で後方へ飛んだ。再び二人の間に距離が空く。すると明らかに険しい眼差しになったジュリアスがざっと波を分け、進み出るとロザリアの肩を掴んだ。掴んで、ぎょっとしたように手を引いた。
 辺りは波の弾き合う音しか聞こえない。微かにコラのか細い「ロザリアさまー、ジュリアスさまー」という声が耳をかすめるだけだ。
 馬鹿馬鹿しいことに、ロザリアはこのようなことで泣きたくなった。母が亡くなっても、父からの仕打ちにも泣けなかったのに、こんな、酷くつまらないことで。
 頭上から盛大なため息が聞こえた。
 何だかこのまま波に連れていってもらいたい気持ちになり、ロザリアは、じり、と再び後ずさりしようとしたそのときだった。ぐい、と身を無理矢理海の中から引き上げられると、肩からばさりと何か被せられた。はっとして見るとジュリアスはもうロザリアから背を向け、岸辺へと戻っている。
 一瞬、呆然としていたロザリアは、肩から掛けられたコットンのシャツを胸の前でかき寄せると、海中の地面を蹴るようにしてジュリアスに駆け寄った。波と風に晒されてなびいた髪の隙間から、剥き出しになった肩と腕、そして背中が見える。
 思っていたよりも……か細くはなかった。
 「ジュリアス……」
 「何だ」
 「何か運動でも……してる?」
 「とくに何も……ああ」相変わらず歩き辛そうにしながらも淡々とジュリアスは返す。「あえて言えば乗馬だな。それが何か?」
 「背中が……綺麗」
 そう呟くように言うとロザリアは、片方の手でシャツの前を合わせ、もう片方の手を前にすっと出し、ジュリアスの背筋にそっと触れた。それが合図のように、ジュリアスは前を見たまま立ち止まった。
 「……誉めているのか?」
 少し愉快そうにジュリアスが尋ねた。
 「……ええ、とても」
 長い黄金色の髪が波しぶきで少し湿っている。ジュリアスはそれを束ねるように掴むと前へやった。本当にしみ一つない白い背中がロザリアの目の前に広がる。
 「海辺では生白い肌は好かれないようだが?」
 「そうね、もう少しだけ」
 そこまで言ってロザリアは、不意に目が潤むのを感じた。妙な安堵感がロザリアの緊張を解いていく。手で触れていたジュリアスの背にこつんと額を当てた。
 温かい、と思った。
 「ロザリア?」
 「……焼けていても……いいかもしれないわね」
 「ふん」鼻で笑うとジュリアスは後ろを振り返らないまま言った。「日焼けはともかく……まあそうだな……少しは泳げるようになった方が良いかもしれぬな」
 思わずロザリアはジュリアスの背につけていた額を外した。私は泣いているのだ、と初めてロザリアは自覚した。けれどそれをそのままに、弾む気持ちで言った。
 「まあ! ね、今年は無理でも来年は泳げる?」
 「さあ……」可笑しそうにジュリアスは言う。「どうであろうな。なかなか時間もないが」
 「一年もあるのよ? 大丈夫よ!」
 それにはジュリアスは答えなかった。
 「だがあの曲はそれなりにピアノで弾けるようにはなったぞ」
 「『海』を? 本当に?」勢いづいて言ったもののロザリアはうなだれ、再び額を背に当てた。「でもわたくしはもう」ヴァイオリンをやめてしまった、と言いかけてロザリアは、それを飲み込んだ。ブランクはできてしまったけれど、またレッスンを再開しようと思った。
 「今回はヴァイオリンを持ってきていないけれど」頭を起こすとロザリアは明るく言った。「来年は持ってくるわ。一緒に演奏しましょう」
 「ああ」
 そう返事するとジュリアスは再び髪をぱさりと背に払い、ロザリアの前を歩き始めた。