あなたと会える、八月に。
◆12
「滝の上流へ視察に?」
リュミエールと森の湖へ向かいつつロザリアは、ジュリアスのことを聞いて目を丸くした。一夜明けて今はすっかり青空が広がり、穏やかな陽射しが樹々の合間から差し込んでいる。道自体、日陰の部分は多少ぬめってはいたけれど、それほど歩き辛いというわけではなかった。
「ジュリアス様自らいらしたのですか?」
用事とはそのことだったのかと、ロザリアは尋ねずにはいられなかった。
「先ほど偶然お会いしたときに、気分転換になるとおっしゃって」
気分転換……ですって?
ロザリアの心は波立った。
それほどまでにわたくしと……一緒に日の曜日を過ごしたくなかったと言うの?
「……わたくしも行ってみたいですわ」
「え?」
ロザリアは目の前に開けてきた湖に流れ込む滝を眺めつつ指をさした。
「以前から、この源流はどうなっているのか興味がありましたの」
そこでロザリアは、ジュリアスが目当てだと思われたくない−−自分もそうなのだと自覚したくない−−かのように続けた。
「泳げるものなら泳いでみたいですわ」
「おや」にっこりと笑ってリュミエールは尋ねた。「ロザリアも水泳が好きなのですか?」
「わたくしも、って……?」
「私はね、海洋惑星出身なのですよ」
「まあ!」ロザリアは思わず声を上げた。「わたくし、本当は海の方が好きなのです。川や湖は泳いだことがないのですが、海へは毎年休暇で必ず八月に」
そこでロザリアは言葉をいったん止めた。
ジュリアスと会えるのが楽しみなのです−−だがその言葉は別の内容に変換される。
「……海へ行って泳ぐのが……とても好きなのです」
「そうでしたか。私も故郷ではよく泳いでいましたよ。もっとも私はどちらかと言うと潜る方が好きなのですが」
そう言ってリュミエールはロザリアの足元を見た。細身のパンプスが気になる様子だった。
「そのような靴では、上流へは少し歩きづらいかもしれませんよ」
「ああ」ロザリアは笑ってみせた。「大丈夫ですわ。ずっとこれで歩き慣れていますから……あの」
今さらながら、無頓着なことを言ってしまったとロザリアは反省した。
「リュミエール様……勝手なことを申し上げてしまって……よろしかったでしょうか?」
「ええ」ふっと微笑むとリュミエールは告げた。「私も久しぶりに水辺へ行ってみたくなりました……そういえば、長らく泳いでもいませんしね」
言いながらリュミエールは、湖の脇を通り抜け、ゆるい傾斜のある小道へと歩き始めた。ロザリアもそれに従う。
「海へ……ですか?」
「いえ、残念ながらそこまでは」くす、とリュミエールは笑う。「聖地の私邸にはプールがあるのですよ。私好みのものですが」
「まあ」ロザリアは興味を持って尋ねた。「リュミエール様好みのプールってどのようなものなのでしょう?」
「ふふ……一番浅いところでそうですね……ロザリア、あなたの頭までがすっぽり浸かるほどで」
「えっ」
「深くなるとその倍以上です。でも本当は、もっともっと深くしたかったのですが」
「そ、それは……」
ひたすら海面を泳ぐのが好きなロザリアは潜る方についてはあまり試したことがなかったので、話を聞いてぎょっとした。やはり故郷自体が海だというリュミエールとは格が違うのかもしれない。
「先ほども申しましたが、私は潜るのが好きですのでね。ああでも、プールの距離はそれなりに確保させてもらえたのですよ」そう言って楽しげに語っていたリュミエールの表情が、ほんの少しだけ陰った。「海のようにはまいりませんけどね」
そうですね、と頷きながらロザリアは、海のことを思った。ここ飛空都市に来てからまだ一年も経っていない。いつもなら一年経つのを待っていられたのに、次がないと思うと−−渇いたように欲してしまう。
水の中……海の中。
海の中はとても気持ちが良いのに。一緒に入りましょうよ。
……そう言ったのに。
次の年は一緒に泳げると思ったのに。
ロザリアは小さくため息をつく。
決して険しいという訳ではなかったが、やはり山道を行くうち少し足が痛くなってきた。けれど自分が行きたいと言った手前、泣き言は言えないとロザリアは気を紛らわせるかのように、聞こえてくる水のせせらぎに耳を傾けた。
だがそれは、あっという間に大きな音になってロザリアとリュミエールの耳に飛び込んできた。
「これは……」リュミエールの眉が顰められた。「ジュリアス様がおっしゃっていたとおりですね、かなり増水している……」
岩に当たるたび白い飛沫を上げて水が流れていく様子が目の前で広がる。
「リュミエール様、これって……とても危険な状態なのでは」
「そうですね」ふだんにはない厳しい表情を見せてリュミエールは周囲を見回した。「この辺りにも確か、住んでいる人たちがいたはずです。声をかけておきましょう」
「わたくし、ここでお待ちしていますわ」
先ほどよりもずっと足が痛み出したこともあり、ロザリアは少し川から離れるとリュミエールに告げた。
「わかりました、すぐ戻りますね」
リュミエールが行ってしまうとロザリアは、大きめの岩の上に持っていたハンカチを広げ、そこへ座った。そして靴をそっと脱いでみて、深くため息をついた。
「ちょっと無茶をしてしまったかし……」
ざばん、と大きな水音が聞こえた。目の前の激しい水流とはまた異なる音だ。
はっとしてロザリアが手に靴を持ったまま立ち上がった瞬間、甲高い悲鳴が茂った樹々の合間を突き抜けた。子どもの声のようだ。
……落ちた?
川を見る。速く激しい流れのせいで岩にぶつかったときに泡ができるほどの状態の中、明らかに川のものでない−−小さな手と頭が浮いたり沈んだりして流れてくるのが見える。岩にしがみつこうとしているためか、流される速度が時折落ちるから、まだロザリアのいる場所の前までには至っていないけれど。
ロザリアは靴を放り出すと、ざばざばと川へ入りかけた。だが着ているワンピースの裾のレースに水が滲みたとたん、それは足にまとわりついてロザリアの動きを遮った。
「な……っ!」
もどかしげにしながらロザリアが動こうとしたとたん、川原のぬるりとした石に足を滑らせ、前のめりに転んでしまった。したたか膝を打ち、前身ごろはずぶ濡れになってしまったものの、どうせもともと濡れるつもりだったからロザリア自身、頓着しなかった。だが、それよりも問題は、濡れたワンピースが異様なほどの重量を持ってロザリアにしがみついてきたことだ。
ふと思い出す。
『服を着たままだと、途方もなく歩き辛いものだな、海は』
そう、あれは海だったが、服を着たままジュリアスが海の中で往生していたロザリアを助けに来てくれた。あのときパンツの腿あたりまで濡れただけでも歩き辛そうにしていた。なのに今、自分がこの状態で川−−しかも凪いだ海とは異なり、ざばざばと音をたてて流れる川の中へ飛び込んで子どもを助けられるものなのか−−そうロザリアが思ったそのときだった。
別の水音がした。誰か他に川に落ちたのか、入ったのか−−
作品名:あなたと会える、八月に。 作家名:飛空都市の八月