あなたと会える、八月に。
◆13
……行かなければ。
ロザリアは水を含んで重い枷のようになってしまったワンピースにふらつきつつ立ち上がると、躊躇せず川へ足を踏み入れた。だがその瞬間背後から、ザザッと草や石の弾かれる音がしたかと思うと、いきなり腹を強い力で引っ張られ、川から引き上げられた。
「いけません! ロザリア!」リュミエールだ。「何をする……」
どうやらリュミエールにも状況がわかったらしい。まさに今、目の前の川を、子どもが泣き叫びながら流されていく。そして、その少し離れた後から行く黄金色の髪。
それが、ふっと水面の下へ沈んだ。
びくり、と躰を震わせるとロザリアは、腹に通されたリュミエールの腕を矧<は>がそうと躰を懸命に捻りながら叫んだ。
「放してっ!」
だがリュミエールはロザリアの躰を羽交い締めにした。
「だめです、ロザリ……」
「ジュリアスが死んでしまう」
抑え込むようにロザリアは、リュミエールの言葉を遮った。そこにはもう『女王候補』だという自覚など完全に消え失せていた。ぎょっとした表情に変わったリュミエールに気づかぬままロザリアは続ける。
「わたくしが助けに行かなければ……放して!」
「落ち着いてください、ロザリア。ジュリアス様は大丈……」
「ジュリアスは水の中に入ったことがないのよ!」どうにか動かせる首でいやいやをするように横に振りながらロザリアは叫ぶ。「泳げるはずがないわ!」
そうしてロザリアは、なおも川へと行こうとする。けれどリュミエールの腕の中からまったく逃れることができない。
それどころか。
急に思い切り躰を岸辺へと押し戻された。その強さと痛みに意識を取り戻したかのように我に返ったロザリアを一瞬見据えてリュミエールは、何も言わず踵を返すと、流されていく子どもの後を追って川沿いを駆けていってしまった。慌ててロザリアも行こうとしたそのときだった。
再び、黄金色の髪が川面に現れた。しかも、今度は流される子どものすぐ前に。
潜水……していた?
水の中に入ったことがないって言っていた……のに?
「嘘……」
小さく呟くとロザリアは、よろよろとリュミエールの後を追った。
「ジュリアス様!」リュミエールが叫ぶ。「いけません、後ろへ回って!」
目の前に現れたジュリアスに、子どもが苦しみのあまり暴れながらしがみつこうとした刹那でジュリアスは再び川の中へ潜った。だが今度は浅めで、すい、と子どもの側をすり抜けると背後に回った。
「そうです!」リュミエールの声が微かに弾んだ。「腕を顎の下から反対側の腕の脇に通して!」
浅黒い顔の子どもの首もとに、ジュリアスの白い腕がすっと被さるように掛かった。そしてそれはリュミエールの指示どおり脇へ通される。
そこでようやくジュリアスがリュミエールの方を見た。その視線の先が、明らかにロザリアの位置で止まる−−ほんの少しの間……本当に瞬時ではあったけれど。
「ジュリアス様、こちらは遠い! あちらへ!」
反対側の岸辺を指差すとリュミエールは、なおも流されていくジュリアスと子どもの位置にできるだけ近づこうと、横走りしながら叫んで指示を繰り出した。言われてロザリアも対岸を見る。確かに岸辺らしいものはあるが、その背後はすぐ絶壁になっている。救助できたとしても水の中から上がって息をつくぐらいが関の山だ。どちらにしてもこの、リュミエールとロザリアのいる側の岸辺へ戻らなければならない。
ジュリアスもそう思ったのだろう、リュミエールを見返す。
「だめです、無理をしないで!」
きっぱりとリュミエールが言う。大きく目を瞬きさせることでそれを首肯の印としてジュリアスは、対岸に顔を向けると空いた片方の手を前に伸ばし、水中で足を動かし始めた。
泳いでいる。
しかも子どもを腕で牽引しながら。
確かに対岸の方が距離は短く、ジュリアスと子どもは無事、向かい側の岸へ着いた。
「ロザリア」
鋭くリュミエールが呼んだ。呆然としていたロザリアは、はっと意識を取り戻してリュミエールを見る。
「ジュリアス様を見ていてください。私は近所の人からロープと何か浮きになるようなものを借りてきます」
そこまでリュミエールが言ったとき、再び、ざざっと草を踏み締め、石を蹴散らして駆けてくる音がした。
「……リュミエール様!」
声のする方向を見ると、大柄な体格の男が立っていた。
「あなたは先程の……」
リュミエールの言葉に男は頷いた。
「はい、川のご注意を受けて、その後子どもを捜しに行こうとしたところ、一緒に遊んでいた子どもから落ちてしまったと知らされて……」
「ではあの子は」
「儂の息子です……!」苦しそうな表情を見せて男が言った。「あれほど注意していたのに、足を滑らせて」
言いながら男は、岸辺近くにある頑丈そうな木に、持っていたロープの片端をくくり付けると、着ていたシャツを脱いでもう片端を手際よく自分の躰に巻き付けた。
「儂がジュリアス様をお連れし、息子を引き取ります」
リュミエールは頷くと、ようやく本来の穏やかな表情でロザリアを見た。
「先ほどは……手荒なことをしてすみませんでした、ロザリア」
ロザリアは、対岸のジュリアスの方を見つめたまま小さく「いいえ」と言った。今さらながら、リュミエールの顔をまともに見ることができなかった。
なんて愚かなわたくし……この方の前で叫び散らしたわ。
だってジュリアスが。
−−ぞくりとした。
水の中へ沈んだのを見た瞬間、頭の中が真っ白になってしまって。
指先が震える。
極度に緊張を強いられると、顔には出さない代わりに指先がじんわりと冷たくなり、細かに指先が震え出す。
男が下だけは綿のパンツ姿のまま川へ入っていく。そして少し進んだところで力強く川の水を掻いて泳ぎ始めた。リュミエールは木にくくられたロープの端と、ロープ自体の具合を見つめつつ、言葉を続ける。
「ジュリアス様は大丈夫。泳げますよ」
「……そのよう……ですわね」叫び疲れ、掠れ切った声でロザリアは応える。指先は依然として震え続けている。「でも……水の中に入ったことがないって……」
そうしてロザリアは、対岸にいる、川の水を呑んだらしく激しく咳き込んでいる子どもと、その背を撫でてやっているジュリアスを見やる。
「ええ、確かに」頷くとリュミエールは言った。「私が泳ぎをお教えしたので」
その言葉に対し、即座に反応しきれず緩慢な動きで顔をリュミエールへ向けたロザリアに、リュミエールは微笑んで告げた。
「……お出かけになった先の海で毎年八月に会う子どもから、『来年は泳げるように』と言われたそうで」
ロザリアの目が、驚愕で大きく開かれる。
作品名:あなたと会える、八月に。 作家名:飛空都市の八月