あなたと会える、八月に。
◆19
「……ジュリアス様」
「詮無いことかもしれないが言っておく。決して女王試験に手心を加えてはいない」
首を横に振ってリュミエールは言う。
「そのようなこと、もちろんわかっております……ですが」
「何だ?」
「むしろ……ロザリアに厳しくされ過ぎているのでは……?」
沈黙が居間を覆う。調子に乗って言い過ぎたかと、リュミエールは俯いた。けれど聞こえてきたのは意外と弱い声音だった。
「……そう見えるか?」
「はい……」少し慎重にリュミエールは返事すると続けた。「本当は今日ぐらい、ロザリアとお出かけになるべきだったのでは、と……」
昨日、一緒に過ごしましょうとロザリアについ声をかけてしまった。優しすぎるのは、むしろ相手を傷つけると、『向かい側』の力を持つオスカーから言われたことがある。そう、昨日のそれは同情だった。そしてそれはたぶん、ロザリアにも感じさせてしまったに違いない。それでもリュミエールは声をかけずにはいられなかった。ジュリアスとのやりとりを聞いてしまって、去っていくその後ろ姿を見るロザリアの様子が、あまりにも寂しげだったから−−
「日の曜日は、どちらの女王候補とも会わぬようにしていた」苦笑してジュリアスは言う。「だが少々、態度があからさまになり過ぎたようだな」
ジュリアスの言葉にリュミエールは目を伏せた。
「申し訳ございません。出過ぎたことを」
「いや良い。なるべく平等にしようと心がけ過ぎて、かえってロザリアに対しきつい態度をとってしまっているのは……否めない」
女が大きめのタオルを持ってやってきた。そして、おずおずとそれをジュリアスに差し出した。礼を言ってそれを受け取るとジュリアスは、湿った髪を払い、肩から掛けた。
「お嬢さんはもうすぐ湯からあがられますよ」
「……もう、か?」不審そうにジュリアスが女に聞いた。「入ったのは、つい先ほどであったのに」
「早くジュリアス様に入っていただきたいのではないでしょうか? とても急がれているご様子で」
満面に呆れたと言いたげな表情を浮かべると、ジュリアスは椅子から立ち上がった。
「……ジュリアス様?」
リュミエールは、まさかと思いつつも声をかけてみた。
「もっと入っているよう言ってくる。しっかり温まっておかないと風邪でもひかれたりしたら事だ」
「あのじゃあ、それは私が」思わず女が少し大きめの声を出した。「ジュリアス様がお出ましにならなくても」
「そうですよ、ジュリアス様。女性同士ですからここはお任せしておきましょう」
故意に『女性同士』というところを強く言ってリュミエールはジュリアスを見た。その瞬間、ジュリアスの瞳が揺れたような気がした。
小さくため息をつくとジュリアスは再び椅子に腰を降ろした。
「……よろしく頼む」
女はにっこり笑って頷くと再び居間から去っていった。その足音が遠ざかると打って変わってジュリアスは、盛大なため息をついた。
「……ジュリアス様……」
「嗤うがいい、リュミエール」躰を斜めに傾け、居間の窓から差し込む日の光の方に目を向けジュリアスは呟くように続けた。「私の中ではロザリアは、いつまで経っても初めてみた六歳の子どもであり、十二歳の、懸命にヴァイオリンを弾き、海で彼女の母親の背につかまってはしゃぐ『子ども』なのだ。なのに」
「……十七歳、ですよ?」
「そうだ」微かに苦しげな色を表情ににじませてジュリアスは言う。「感覚がついていかない。いつの間にかあのように成長して私に」
リュミエールは、その言葉の続きを待ったが、ジュリアスは黙ってしまったまま、もう何も言わなかった。
たぶんロザリアが十六歳の八月。
たとえ短い距離ではあったにせよ、ジュリアスはリュミエールの訓練の賜物で泳げるようになっていた。少しだが驚かせてやる、と嬉しげに言ってジュリアスは土の曜日に旅立った。リュミエールはその結果報告を聞ける休み明けの月の曜日を楽しみにしていた。
だが、その月の曜日の朝、すべての状況が変わってしまっていた。
女王交替。
そして新たな女王試験が行われると、ジュリアスは守護聖の首座として淡々とそれを他の守護聖たちに伝えた。その顔にははもう、何の感情も見いだすことはできなかった。
それから飛空都市に試験の場所が移され、なかなかジュリアスとも内々で言葉を交わす間もなく時が流れた。当然とはいえ、土の曜日に彼が外へ−−あの海へ出かけている様子はなかった。それを茶の合間にオリヴィエや、ルヴァが話題に出すことがある。二人ともそれ以上は何も言わないが、ジュリアスの隔週土の曜日の外出が滞っていることを知っており、気にかけている。
そしてそれは、クラヴィスですらも同じことだった。
「もう……『習い事』は終わったのか?」
彼の執務室でハープを弾き終わった時、ぽそりとクラヴィスが言った。以前と異なり、執務が終わったらすぐに館に戻り、ジュリアスを迎える準備をしていたことを指して言っていることは、リュミエールにもすぐわかった。
「ええまあ……こちらの館にまでプールを作るわけには参りませんし」
ふっと鼻で笑うとクラヴィスは「それもそうだ」と言った。
一方で、土の曜日、日の曜日。そして他の日の夜、ジュリアス様がまた執務に没頭し始めたと、オスカーがこぼした。
「まあそれでも……以前よりはずっと俺に仕事を振ってくださるようになっただけ、まだましなもんだと思うがな」肩をすくめ、オスカーは言う。「おかげで、俺も遊びに行けなくなってしまったが」
「……オスカー」
呆れたように言うとオスカーは、はっはっはっと快活に笑い、ジュリアス様から呼ばれているんでな、と言って去っていった。
そう、以前よりはずっとましな状況だ……たぶん。そうリュミエールは思っていた。それでも、ジュリアスが毎年八月に会う『子ども』のことが気になった。泳げるよう約束したとのことだったが、どうなったのだろう、と。
だが今日の様子を見ていると、『子ども』ことロザリアは、ジュリアスが泳げるようになったことを知らなかったようだった。
十六歳の八月。
いったい何があったのだろう?
作品名:あなたと会える、八月に。 作家名:飛空都市の八月