瀬戸内小話3
砂上の楼閣
戦国乱世と世の人々が口にする。その先陣を切るかのように、中国では冷ややかな戦が行われていた。
騙し騙され、下克上すら当たり前と言われるこの時代にあって、あまりに血の通わない氷の戦だと。
その指揮を執った一豪族の武将の名は、瞬く間に日の国各地に広まった。彼は数年のときを経て、広大な中国地方のすべてを支配下に治め、瀬戸海に降臨した。
天下統一を目指し上洛こそ至上とする中で、あともう少しばかり前進すれば手に届く位置にありながら、歩みを止めた武将。世の人々は、それもまた奇怪なことよと噂にした。
「――上洛など、愚かなことだ」
噂の人物は、そう呟くと瀬戸海に浮かぶ朱色の鳥居に触れる。
潮は満ちかけ、足元は波に洗われゆく。それでも離れ難いのか、大きな朱の柱に凭れるようにして海を眺める。
周りには誰も居ない。
ただ潮がゆっくりと満ちてゆく音だけが、厳島を支配する。
ゆっくりと、物言わぬ兵らを海の底へと攫ってゆく。
「そう思わぬか、鬼よ」
ちらりと社のほうへ視線を向け、また海へと戻す。水面はいつしか夕日と血に染まり、赤く。天も地も、すべてが朱色に彩られる。
なんと似合いな光景かと、見ている鬼の口の端が、知らずに上がる。
「つまんねぇことだと、思うぜ」
碇槍を背負い、波を蹴って鳥居の傍へと歩き出す。
「……そんなに天下が欲しいもんか?」
「欲しいから、こうして攻め入って来るのであう」
瀬戸海に散らばる、五七の桐の紋が入った旗の数々。どれほど屠っても、その数は一向に減ることが無い。
「天下など、いくらでもくれてやるものを」
深い息を吐き、頭を振る。毛利家の領土が守られるのであれば、恭順を誓うことも吝かではない。だが、豊臣は、彼が全幅の信頼を置く軍師は、毛利を自由にさせることを是としない。力を削ぎ、水軍を手放せと言う。
それは当然のことだと己も思うからこそ、元就は采配を揮い続ける。
「……いずれ、豊臣も壇ノ浦で滅びようぞ」
「盛者必衰の理、ってか」
鳥居に手を突き、鬼が笑う。
乾いた声を潮騒が掻き消すように、日輪もまた沈んでゆく。海は、もう赤くない。
「豊臣は、強いな」
「……ああ」
中国と四国が手を組んでも、対抗しきれない理屈なき力。智謀も何もかも飲み込んで、遠からず豊臣は天に昇ることだろう。
日が翳るように、顔に影が落ちる。咽返るような血臭が鼻をつき、呼吸が止まる。
「――もう、次はねぇな」
触れる唇が、囁く。
呼吸を奪い、熱を奪い、矜持をも奪おうと、それは囁く。
目を閉じて、溺れてしまえばよい。
沈む水底では、血にまみれて苦しむこともない。嘆くこともない。ただ、そこにはなにもない。
だから、足掻くのだ。
舌を絡めてもよい。肌を重ね合わせてもよい。それでも、己が毛利元就であるという矜持だけは決して渡しはしない。
「毛利を、滅ぼさせはせぬ」
崩れそうになる身体を鳥居に凭れさせたまま、闇に落ちゆく天を仰ぐ。
傍にある胸を押せば、ゆるりとそれは遠ざかる。
「言ってることに矛盾がないか?」
仕方ない奴だと、笑いを含んだ声が響く。豊臣はいずれ滅ぶ。であれば毛利とていつか滅びる。それが道理だと。
理をいえば、その通りだろう。だが、毛利だけはと願うのは、己の支え。己のすべてだから。
「だから我は、足掻くのだ――元親」
名を呼び一つ目を見やれば、鬼は大きな肩を竦めてみせる。
「そうだな。だから、あんたは殺される。生かしてなんて、置けねぇよな」
戻ろうぜと差し出される腕。波はもう膝裏を撫で、すべてを飲み込もうと満ちて行く。
このまま攫われれば、楽になれる。だが。
もうひとつ頭を振ると、足掻くべく、元就は崩れ行く地へと踏み出した。