瀬戸内小話4
波音
いつの頃からか、聞こえる音がある。
それはまるで波打ち際にいるかのように、寄せ手は返す波の音。
とにき人の手を止めるほどに五月蝿くもあれば、眠りに誘うように穏やかに。そんな波の音が、また耳につく。
不思議と、この音は誰にも聞こえないらしい。はじめのうちこそいぶかしんでいたが、気がついてしまえばたいしたことではない。
「元就様?」
足を止めたせいで、傍で進軍していた隆元が首を傾げる。
当然、周囲の者も足を止め、それは元就を中心に小波のように広がっていく。
何事か、とは誰も問わない。蒼穹を見上げる対象の邪魔をすまいと、皆が息を飲み、周囲の気配を探る。
「……鬼が、近いぞ」
波の音が、ゆっくりと、だが確実に大きくなっていく。これから嵐でも来るかのような、そんな海が元就の中に広がっている。
「斥候を出せ」
隆元が慌てて命じる。周囲に長曾我部軍の気配は無いし、進軍している話も聞いていない。だが、元就が近いと言うのだ。否定する要素は、毛利軍の中にこれっぽっちもない。
命を受け、方々へ兵が走り出す。その背を追いかけるように、元就も走り出す。
「殿!」
波の音は、もはや周囲の音を打ち消して。
一団から抜け出し輪刀を翳せば、日輪の光を受けた弧が、輝く。
その光の先で、碇槍で駆け上がって来る鬼の姿が見えた。