学園小話
磨く ……綾部と滝
部屋に戻ったとき、同室者はちょうど洗いたての髪を梳かしている最中だった。
滝夜叉丸の手にある使い込まれたつげの櫛は、この学園に入学した当時から使っているものだが、いまだ現役。時折、彼は皿に垂らした椿油で手入れをしている。
あるとき皿の上に残った椿油をもったいないと言ったら、あとでちゃんと使うから無駄はないと返された。
椿油を入れた首長の小さな水差しから、慎重に数滴。掌に垂らしてそれを薄く髪に塗る。
そうして白い、しかし四年生の中でも有数の豪腕で優しく梳く。
正座した太股に広げられた手ぬぐいには、抜け落ちた髪が波打っている。これは、あとで集めて売るのだという。
残った椿油のこともそうだけど、こういうところはしっかりしていて、話に聞くけちな一年生ときっと話が合うに違いない。いや、似たもの同士でけんかになるだろうか。
他愛もないことを思いながら、やはり他愛もないことを口にする。
「女のようだね」
その仕草も、嗜みも。
櫛を貸してよと手を伸ばせば、日々の土汚れですっかり黒くなっている手の平をまじまじと見て、彼は小さく首を振る。
「使いたいなら、私があとで梳いてやる」
「違う。梳かせて?」
「冗談ではない。私の大事な髪が痛んでしまうではないか」
お互いもう四年生で、毎日のように野山を走り地面を掘っている。その腕力も握力も、並大抵のものじゃない。つげの櫛を両手で覆い隠して、それでも足りないとばかりに胸に抱く。どれほど信用がないか、この仕草だけでまるわかりだ。
もっとも、彼が求める繊細な手管など、髪結いのプロだったタカ丸を呼ぶしかないのだけれど。
「ケチ」
「ケチで結構」
フンとひとつ鼻を鳴らし、滝夜叉丸はまた髪を梳きはじめる。
つまらないと寝転がり、部屋の片隅においてある本に手を伸ばす。しかし、あと腕半分届かない。
「滝夜叉丸、取って」
「自分で取れ」
鏡に向き合う彼は、こちらを見向きもせずつれない言葉を投げてくる。
「ケチ」
「ケチで結構」
「ケチケ~チケチッチ」
「歌うなっ」
子供か、とぼやくその背中。でも彼も子供らしいところは存分にあるのだから、人のことを言えた義理ではないだろう。
ごろりと床の上で回転し、本を手に取る。別に読みたい気分でもないけど、何もしないよりはたぶんマシだ。
ぱらりぱらりと活字を追っていれば、おい、と声をかけられる。邪魔をするなと知らん振りをしていれば、すぐ傍まで近寄ってきた彼は、よいしょと人の身体を起こす。
「なに?」
「本ぐらい座って読め」
ぐいと片手で背中を押して、もう片手に握った櫛を人の髪に突き立てる。
「なんだよー」
「梳いてやるから、一人で座れ! 私の手にもたれるなっ」
ほら、と促され、仕方なく胡坐を組みなおす。それに満足したらしい滝夜叉丸の、節くれ立った指が緩くうねる髪を撫でる。
「終ったの?」
「ん? ああ、当たり前だ。でなければ、私がわざわざお前の髪を梳くはずがないだろう」
「それもそうだね」
こちらがあっさり頷くものだから、一瞬、髪を梳く手が止まる。否定でもしてもらいたかったのだろうか。それを口にすれば拗ねるのは間違いない。
何度も髪を往復する手。
操る彼は何も言わないし、こちらも文字を追いかける。普通何か喋るものだと、タカ丸ならば言うだろう。実際、彼が髪をいじるときは達弁だから。だけど。
「終ったぞ」
ぽんと肩を叩いて、滝夜叉丸が口にするのは終了の言葉。彼は案外、真剣なときは言葉を必要としない。
「またやってよ」
そのまま彼の胸にもたれかかると、重いぞという文句と共に軽く小突かれる。
「お前は自分の武器を他人に磨かせる趣味があるのか?」
今日だけは特別だということらしい。しかしその言い方が面白くて、背後をちらり見上げて笑う。
「私の髪は武器じゃないよ」
「武器になりうるだろう。磨けば光る。……手も多少綺麗にする必要があるようだが」
私ほどではないとはいえ、喜八郎もなかなか整った顔をしているのだからな。
朗々と自慢に入るのが滝夜叉丸の悪い癖だから、一房、自慢の髪を引っ張ってやる。
「痛いぞっ、引っ張るなっ!!」
「滝夜叉丸の武器は軟弱だね」
つややかな髪を指に絡めて言えば、今度はさっきより強めに小突かれた。