名を呼んで
「なあ、先生」
「んん?」
その夜布団に入ってから、俺はちょっと先生に訊いてみた。
「多軌の『して欲しいこと』って何だろうな」
「さてな。金でも貸して欲しいのではないか?」
「……あるわけないだろう。そんなこと」
先生じゃあるまいし。
「ではあれだ。女子特有の発作だ」
「発作?」
「ほら、よくいるではないか。『何か美味しいもの食べた~い』などと身をくねらせている女子が。うん。そうだ。そうに違いない。そうと決まれば我々は明日にでも七辻屋の新作の水まんじゅうを試食に行っておくべき……」
「真面目に相談しているんだぞ。先生の趣味で答えないでちゃんと考えてくれ」
「なんでそんなことを私が考えてやらねばならない」
先生は顔を思い切り顰めて俺を睨む。まあ確かに、用心棒の仕事の範疇ではない。でも。
「先生はしょっちゅう多軌にぎゅうぎゅう抱きしめられているじゃないか。だったら彼女が考えていることだって多少わかるだろう?」
「それはまあ。身体伝いに流れ込んでくるものは多少あるがな」
そうなのだ。妖怪は触れただけでも相手の気持ちの向かう先が少しわかるらしい。
もちろん誰でも、というわけではない。
だが激しい嫌悪や憎しみを抱いている場合、逆に大きな好意や愛情を持っている場合などには感じるものがあるらしい。
多軌はいつもニャンコ先生を見ると理性を飛ばして抱き付いているから、何か伝わってきているものがあれば、と思って訊いてみたのだ。
ところが。
「しかし私の口からは言えんな」
「なぜ?」
「熱いキッスと抱擁を望んでいるなどと仮にも女子が……イテッ!」
「殴るぞ」
「殴っておいてから言うな!」
相談しただけ無駄だった、と疲れた俺は、布団にもぐりこんで寝ることにした。
しかし先生は逆に訊いてきた。
「けしからん。そういうことを言うお前はどうなんだ?」
「どうって?」
「あの小娘にどんなことを言って欲しい?」
「言って欲しいことだって?」
考え込む。
多軌は友達だ。大事な、かけがえのない友達で、自分にいつも大切な気持ちをくれる人だ。
その人にこれ以上望むものなんてない。
ただこのままいつまでも同じように傍にいて、時に励ましてくけれたり、時に大切なことを教えてくれたり、そんな関係がいつまでも続いたら良い。
そうだ。強いて言うならそれだ。いつまでも友達でいてくれたら嬉しい───
「ずっと友達でいましょう、かな」
「…………お前は底なしのバカだな」
ニャンコ先生は疲れたような声でそういうと、私は寝るぞ、と布団の隅で丸くなった。
「なんだよ、言えっていうから言っただけじゃないか」
今度こそきっちりと布団に潜り込んだ俺の脳裏に、恥ずかしいから、と告げた時の多軌の上気した表情が鮮やかに浮かんだ。
五月十五日がやってきた。
多軌は休み時間にわざわざ俺の教室までやってくると、今日、帰り時間ある? 放課後に学校のすぐ裏、赤井神社の鳥居のところで待っていてくれる? と訊いてきた。
「ああ、大丈夫だ……けど、本当に俺にできることなのか?」
「ああ、うん。大丈夫よ。簡単なことだから」
多軌はそう言って去って行ったが、目ざとく見つけた西村が多軌さーん!と叫んで追いかけていった。
手に持っているプレゼントの包みの中身は髪をまとめる時に使うゴムだ。とてもかわいらしい花の飾りのついたもので、多軌の軽やかな髪に良く似合いそうな優しいピンク色だそうだ。
田沼は、西村がそれをプレゼントに包んでもらっているときに偶然同じ店で買い物をしていて知ったらしい。わざわざ俺に教えてくれたのは、俺が『多軌に何か贈り物をしたくて何が良いか尋ねたが、教えてくれなかった』とこぼしたのを覚えていてくれたからだ。
俺は西村と被らないように考えた末、小さな手提げのバッグを買うことにした。通学の時にお弁当を入れるのにも良いし、ちょっと近所に買い物に行くときに財布とハンカチなんかを入れてもらっても良い。たぶん邪魔にならないはずだ。
塔子さんの買い物の荷物持ちに連れて行ってもらったときに相談したら、そういうものを扱っているお店に寄ってくれた。
俺は淡い水色の地に緑色のクローバー模様のついたものを選んだ。五月らしい、爽やかな絵だ。
もし万が一、多軌の『して欲しいこと』が俺の手に余る場合はこれを代わりにしてもらおうという魂胆だった。まあ、保険みたいなものだな。
その保険を鞄に忍ばせて、俺は赤井神社に出向いた。
多軌はもう待っていた。
「ごめんね、こんなとこ、来てもらって」
「いや……さて、何をしたら良い?」
「あ……あのね。その……」
「ん」
「実は、名前、をね」
「なまえ?」
「そう。名前を……その、呼んで、欲しいな、なんて……」
俺はびっくりした。
そして考え込んでしまった。
名前を縛る、というのは人間にも当てはまるものなのだろうか。でも友人帳に多軌の名前はないはずだ。だったら呼んでもいいのかな。でももしかして、人間の場合は妖力のあるものが名前を呼んだだけでも同じ効果がある、とかだったら……いや。ないな。それはない。そんなことが仮にあったとしたら、塔子さんも滋さんも今頃大変なことになっているじゃないか。ないない……
そんなことをじっくり考えていたら、多軌がなにやら慌てはじめた。
「ごめん! ごめんなさい、そんなに嫌だとは思わなくて。ごめんね、忘れて」
「あ……あの」
「今言ったこと、全部忘れて良いから! ああ、どうしよう、ごめんなさ……」
「違う! 違うんだ。多軌。嫌ってわけじゃないんだ」
「……え」
「そんなの全然いやじゃない。ただ……その、ちょっと戸惑っただけだ」
「ああ……そ、そうよね。戸惑う、わよね。下の名前で、なんて」
「え」
「普通呼ばない……っていうか、呼んだら、それってちょっと、アレっていうか……」
「下の名前って、多軌、じゃなくて」
ええと、多軌の下の名前……と考えても出てこなかった。
すると多軌は少しほっとしたような、だけどちょっとがっかりしたような顔で、とおる、よ、と言った。
「そうか。透か……そう、呼べば良いのか?」
「あ……うん」
多軌は急にはにかんだように居住まいを正して、お願いします、と言った。
「それじゃ…………とおる?」
「はい……」
多軌の頬にぱっと赤みが差した。色づいた桃の実のように愛らしくて少しの間見とれた。
すると多軌はますます頬を赤くして、もう一つお願い、私も呼んでも良い? と訊いてきた。
良いけど、というと小さな声でそっと呼んだ。
貴志さん―――
今日はなんだか妙に暑い日だ、と俺は思い、ハンカチで流れる汗をしきりと拭った。
多軌のお願いは本当にそれだけだった。
それじゃいくらなんでも悪いので、結局小さなバッグも渡すことにした。彼女は大層喜んで、嬉しい、ちょうど欲しかったの、と早速お弁当箱を入れてぴったりよ、とはしゃいだ声を上げていた。
けれどその元気なはしゃぎ声を聞いても何故か、俺の名を呼んだときの声ばかりが耳に残って困った。
もしできるならもう一度呼んでくれないだろうか……そんなことをぼんやり思いながら家に帰ったその日のことを、俺はいつまでもきっと忘れない、そんな気がしていた。
「名を呼んで」 終