dear mind
たった一日の停泊で、船は再び大海原に駆け出した。
いつも通りの航海の毎日に戻った船は、初夏のような少し汗ばむくらいの気候の中を進んでいる。
午後のティータイムも終った今、ナミは一人でミカン畑にいた。
グランドラインのメチャクチャな気候にもめげない、ベルメール印のミカンは今日も元気だ。
もう少しで食べごろになるたわわに実ったミカンを愛しげにナミが撫でると、能天気に自分を呼ぶ声が聞こえた。
「おーい、ナミィ」
いつもの赤いベストにジーンズの擦り切れた短パン、草履。そしてトレードマークの麦わら帽子。
何度も何度も、綻んだ所をナミが縫い合わせてやった彼の大切な帽子だ。
海風に飛ばされないように片手で抑えながら、暢気にぺたぺたと足音をさせて歩いてくる。
ミカン畑の目の前に来るとルフィはその場にぺたりと座って、自分の目の前をぺしぺしと叩く。
「ちょっとここ座れ」
「何よ?」
ルフィの態度は親が子を叱るような態度だが、ナミとしては子供が親の真似をしているようにしか見えない。
ナミがルフィを怒る事なら日常茶飯事だが、逆などまず有り得ない。
怪訝な顔で言われる通りにミカンの木を背にしてナミが座ると、ルフィはニッと満足気な顔をしてゴロンと横になった。
ナミの、スカートの膝に頭を乗せて。
麦わら帽子は抑えていた手で取って、日差し避けのように顔の上に載せてしまった。
「ちょっと…ルフィ?」
「寝る」
この船長の行動はいつも唐突で、さっぱり読めない。
自分の膝に頭を乗せて大の字になった我等が頭をあっけに取られたように見詰め、暫く呆然とするけれど。
結局は払い除ける事など出来ず、ナミは自分のスカートの上に散らばる漆黒の髪を指にそっと絡めた。
不意にルフィの片手が持ち上がったと思うと、そのナミの片手を握り締めてきた。
「…ナミ」
「…何、よ?」
また、唐突で。
妙にどぎまぎしてしまう。
膝枕と手を取られたからだけではなく、自分を呼ぶ声がやけに真面目だったから。
「お前、知ってるだろ。ゾロたちの事」
「え…ゾロ? と、サンジくんの事?」
「ああ…俺も知ってる。随分前に気付いてた」
「そう」
妙に勘が鋭い時もある。
妙にすっぱりと核心を突く時もある。
だからそれほど驚きはしなかった。
「俺ぁ、皆の事なら結構何でも知ってんだ」
「うん」
「だから今更お前にも何聞かされたって、驚きゃしねぇぞ」
「……」
「聞いた所で驚きもしねぇし、お前を泣かすような事なんてしねぇ。泣かしたら、風車のオッサンに俺ぁ殺されちまうからな」
「…風車って…ゲンさん?」
「ああ」
小さい頃から可愛がって、本気で叱ってくれた、懐かしいココヤシ村の、怖い顔だけど優しい駐在を思い出す。
突然出された人物にナミはまたキョトンとする。
あの自分の故郷で、いつの間にそんな約束をしていたのだろう。
亡くなった義母の分まで今でもずっと心配してくれているあの傷だらけの顔に、思わず笑みが洩れた。
そしてルフィの言葉に泣きそうにもなった。
自分の気持ちに気付いているし、あの時のように泣かすような返答も態度もしない。
そう言う、意味だろう。
この船長にしては、随分遠回りな言い方をしたものだ。
これを切り出すために、実は結構悩んでいたんじゃないのかとか、それともいつものように素直に口から自然に出てきたのかとか。
思えば嬉しかった。
握られたとは逆の手で、黒髪を指に絡めながらそっと撫でる。
潮風で少し軋んではいるけれど、強くしなやかな黒髪。
愛しい、その人の。
「だから、もう溜めるなよ。そんな顔させてたら、俺ぁホントに殺されちまうぞ」
「…うん」
見下ろす麦わら帽子が少しずつ雲っていく。
泣いたらゲンさんに殺されちゃうんだから、泣いちゃいけない。
あの過保護な駐在なら、本当にここまで殺しにやってくるかもしれない。
自分を何より心配して愛してくれる人と、自分から歩み寄ってくれた彼が嬉しくて。
「好きよ、ルフィ」
涙は直ぐに乾く。
やっと、心の奥にいつも仕舞い込んでいた言葉をやっと言えた。
途端に胸がスッと軽くなるのを感じる。
「やっと言ったな」
麦わら帽子の下から小さな独り言。
空いたゴムの片手は顔を隠していた麦わら帽子を掴んで、悪戯な黒曜石の眸を覗かせる。
「俺もだ」
ニシシ、と子供のように笑う。
まだ乾ききらない涙を目尻に浮かべても、照れた様に笑うナミを見上げて船長は再び麦わら帽子で顔を隠してしまった。
髪をナミに弄らせるまま、片手はナミの片手を握ったまま、また大の字。
いつの間にか太陽は夕日に変わり、水平線にその姿を隠そうとし始めている。
大きなミカンみたいに、大好きなベルメールの笑顔みたいに。
ナミはその太陽に眩しげに目を細めた。
「んナミすゎ〜ん、ロビンちゅわ〜ん、お食事ですよ〜vv ついでに野郎共、飯だぞー!」
大きな夕日が海に隠れた後の、いつも通りの時間にサンジの声が船内に響き渡る。
完全なる女尊男卑のサンジの声は、前半と後半では声のトーンがまるで違う。
既に聞きなれたその声に、クルーたちは我先にとわらわらとラウンジに集まり始める。
その戦闘を切って飛び込んでくるのは船長であるルフィ…である筈なのだが。
今日はどうした事か、いつまでもその姿が現れない。
船長に食われてしまう前にとラウンジに飛び込んだクルー達も、怪訝な顔を通り越して驚愕顔だ。
まだ顔を出さないのは、ナミとルフィと、そしていつでも寝こけているゾロだ。
サンジは仕方なく煙草を銜えながら甲板に出た。
「オラ、寝腐れマリモ! 飯だっつってんだろ!」
これもまたいつもの通り、どれだけ寝れば気が済むのか解らない緑腹巻に踵落としを食らわせて叩き起こす。
ぐぇ、だか何だか妙な声を上げてようやくゾロが目を覚ます。
不機嫌顔で見上げると、怪訝な顔で甲板を見回す姿があって。
「…どうした?」
「飯だってのに、ルフィが現れねぇ。ナミさんもいねぇんだ」
「ルフィとナミ?」
食事時にルフィの姿がないなど一大事だ。どんな天変地異が訪れるか解らない。
それにナミも見当たらない。
ルフィと、ナミ。
ゾロとサンジは二人同時に顔を見合わせた。
まさか、な。
何となく、ばつの悪い想像をしてしまったようで、また二人同時に視線を外して頭を掻いたりする。が。
「……オイ」
何かに気付いたゾロが低くサンジに声を掛け、振り返るサンジに顎をしゃくって何かを示した。
その視線を追ってサンジが視線を上げると、そこにはミカン畑。
薄暗くなった空の下でも解る、ルフィの赤いベスト。
ナミの白いスカートと、白いしなやかな足。
ミカンの木に寄り添うように立つ二人の色彩。
ルフィの赤が、ナミの白を包み込むように。
ナミの白が、ルフィの赤に抱き付くように。
ミカンの木に隠れてそれしか見えないけれど、それはこの船の上で綺麗に絵になる姿で。
「…あ…の、ゴム野郎…! 三枚に下ろしてやる…!」
「三枚に下ろしてもゴムは食えねぇから止めとけ」