幸福な少年? (続いてます)
ああ、癒される。
帝人の優しい手が、彼の血だらけだった体に触れる度、臨也にムカついていた筈の怒りまでも、みるみる洗い流されていくようだ。
目尻が下がり、口元も弧を描いて釣上がっていくのが自分でもはっきり判る。
「何ニヤニヤ笑ってるんですか静雄さん!! もう、そんなに余裕があるんでしたら、包帯ぐるぐる巻きのミイラにしちゃいますよ!!」
キャンキャン騒ぐ声だって、己の心配をしてくれているからだと判っているから、ほっこり心が温まっていくだけ。
(幽、本当に感謝だぜ)
ドラマの仕事の為渡米している弟が、竜ヶ峰をここへ寄越してくれたのだから。
★☆★☆★
その切欠はつい先月の事。
静雄が夜22時に帰宅すると、弟の幽がふてくされ、居間のソファーに寝転んでTVを見ていた。
「よう、いきなりどうした? お前が実家に帰ってくるなんて珍しい」
「兄さん、そこでまず正座」
「はぁ!?」
「つべこべ言わず、とっととやる」
弟が寝転がりながらびしっと指を突きつけた先を見て、たらたらと冷や汗が流れ落ちた。
乱雑に雑誌や古いスポーツ新聞が積み上がっていた汚いテーブルの最上位に、『死ね怪物』『出て行け化け物』と、習字の墨で書き殴られた張り紙が数枚、これ見よがしに置かれている。
「俺、明日からドラマのロケでNYに行くことになった。帰国は6週間後。だから冷蔵庫の生物を兄さんに食べて貰おうと届けにきたんだけど、これは何? 郵便受けゴミだらけだし、玄関は悪戯書きされた上、こんなの張られまくってたし。随分荒んだ嫌がらせだね? お隣の進藤さんや加藤のお婆ちゃん達は、知ってて庇ってくれないの?」
滅多怒らぬ弟の大激怒に、静雄は諦めてすごすごとフローリングの床に正座し、亀のように縮こまって背を丸める。
「何時から?」
「お袋と親父が、田舎に帰って一ヵ月後ぐらい……、かな?」
「ふーん。って事は、兄さんは俺に、一年以上も虐められてるのを隠してたって訳?」
「虐めって、大げさだろが。こんなもん大した事ねーよ」
影に隠れてコソコソする陰湿な一般人からの嫌がらせなんて、事実殆どダメージなんてない。
そりゃ、最初は子供の頃から知っているご近所さんも噛んでやがんのかよと疑って、ちょっと人間不信で凹んだ事もあったが、取り立て屋の用心棒なんてやっていると、毎日のように人間失格の駄目な奴らやヤクザを見ているので、今では全く気にならなくなっている。
だが、幽は今日初めて目にしたのだ。
その『ずっと信頼し、20年以上も慕っていた両隣近所に裏切られた』というショックは、過去の静雄が通った道。
軽い人間不信に陥りそうなレベルだ。
弟の今受けている失望感が理解できるからこそ、ここは兄として慰めの言葉をかけてやるべきなのだが、悲しいかな静雄は口下手である。
「直ぐに荷物纏めて」
「は?」
「俺のマンションに引っ越すんだよ。家財道具は後日業者を手配するから、まずは着替えだけでいい」
「は?」
「大丈夫。建物丸ごと一棟買い取ったから、何処でも好きな部屋選んで。何なら俺と一緒の最上階でもいい」
「は?」
「兎に角、俺、こんな所に兄さんを一人住まわせる気はないから。早く。俺、明日8時の飛行機乗るから、時間今夜しかない」
「ちょっと待て幽。俺は『平和島静雄』だぞ!!」
『自動喧嘩人形』だの『池袋最強』だの、暴力的で不名誉な渾名をつけられるぐらい、名の知られたチンピラだ。
三流雑誌の記者や不良達のターゲットだし、商売も『取立て屋』というヤクザの下っ端で敵も多く、警察にも目をつけられている上、天敵があの臨也とくる。
人生23年目にして、殆ど詰んでる疫病神みたいな男なのだ。
「お前は今や、日本を代表するハリウッドスターなんだぞ。俺なんかが行ったら迷惑になる。判ってんだろ?」
「俺はそんなの気にしない」
「俺が嫌なんだよ。もし大事なお前の足引っ張っちまったら、俺はきっと……、申し訳なさに飛び降り自殺するぞ!!」
例えここの8階建てマンションの屋上から落下したとしても、死ねるかどうか確証もないが。
「俺だって兄さんが大事だ。尊敬している大切な家族が辛い目にあってるって気がついたのに、放置なんてできる訳ないだろ」
無表情だが、背後に背負う気配が恐ろしい。
「何なら俺、強行手段に出たっていいんだよ?『誘拐・拉致・監禁』のフルコース行っとく?」
「馬鹿だろお前!!」
「失礼な。俺は平和島家皆の保護者なだけだ」
幽は、自分が言うのもなんだが、結構常識がない。
学生時代、番組の企画で投資に挑戦し、たった一ヶ月で億万長者になり、それから芸能界に入ってトップスター、そして今はアメリカに進出して有名ハリウッド俳優の仲間入りと、とんとん拍子に出世してしまったため、社会を知らない。
でも、個人的な欲望に限り、自分にできない事は殆ど無いという自覚はある。
強運、カリスマに加え、名声・権力・財力が一般人に比べて桁違いなのだ。
しかも彼は、こんな兄のしでかす不始末の尻拭いに追われ、真っ当な彼女なんて一度も作れなかった。
なので、本来異性に向けるべき筈の彼の愛情や情熱が、現在進行形で異常なほど家族限定に注がれる羽目となっている。
幽自身が己の異常さに、全く気付いていないから、余計に質が悪い。
静雄が説得に失敗して益々ゴネまくり、幽がもし本気になったら最後だろう。
【池袋最強】一匹程度、電話かメール一本で傭兵を大量に雇い、平気で誘拐をやれてしまう。
が、実の兄にそんなのを仕掛けてくる病んだ弟なんて、世間様に知られたらどうなる?
ここは池袋。
狩沢のような腐のつく女子達のいかれた聖地だ。
そんなBL愛好者に、不名誉な格好の餌を投げ与えたらどうだ。
芸能界にはホモが多いと聞いているが、更に近親相姦ネタ加算で遊ばれるなんて、ふざけんな!!
不穏な未来予想図を頭から振り払い、静雄だって負けぬように腹に力を込める。
これでも自分は『兄』なのだ。
弟の幸せを邪魔する訳には絶対いかねぇ!!
「ねぇ兄さん、一緒に暮らそうよ。なんなら明日俺とNYに行こう」
「冗談じゃねぇ。俺はお前のヒモになる気なんてねぇ」
「ならSPはどう? 俺の専属ボディガード」
「しつこい。お前の傍に行く気ねぇっつってんだろ」
「心配なんだ。こんな所に置いて置けない」
「親父とお袋から預かった、俺の棲家だ。ほっとけ」
「嫌だって。何回言わせれば気が済むの?」
「うるせぇ!! うぜぇ!!」
「いい加減、俺だって怒るからね」
「上等だ!!」
お互いがお互いを想いあっての話し合いは、延々平行線を辿った。
「明日渡米するんなら、とっとと帰れ!!」
相手の強情さに切れ、襟首引っ掴んで外に放り出そうと先に手を上げたのは静雄だが、きっちり応戦してきた幽も容赦がない。
鍛えようの無い首を目掛けて、下から強烈な蹴りが喉を抉る。
「……ぐふっ……、……やったな……」
空腹だったから良かったようなものの、下手したらえづいているレベルだ。
「兄さん相手に手加減したら、俺の身が危ない」
「そーかそーか。なら死ぬ気で逃げやがれ!!」
「冗談!!」
作品名:幸福な少年? (続いてます) 作家名:みかる