Melty poison@Valentine(ディスジェ)
その後もサフィールは、始終そわそわしっぱなしだったらしい。十分おきに歯を磨いているだの、鏡の前で変なポーズを取っているだの、机の横に薔薇の花束をどっさり置いていて邪魔だの、噂は嫌でも耳に入ってくる。ジェイドは聞くのも不愉快だったので、なるべく自分の研究室と実験室から出ないようにし、部屋に篭って仕事に専念した。
途中皇帝が押しかけてきてやいやいと騒がれたり、昼休みにはアニスとフローリアンがチョコレートクッキーを持ってきてくれたが、ジェイドの心は澱んだまま、浮上することはなかった。
「それで、本命には渡せました?」
ジェイドからチョコレートを受け取ったアニスが、好奇心に満ちた目で聞いかける。
「そんなものはいませんよ」
ジェイドは穏やかに返したが、彼の手にしていたペンは今にも折れそうに軋んでいた。アニスは悪寒を感じ、取りあえずそれ以上の追求は止めておいた。
「大佐、本命に上手く渡せなかったのかなー。それとも振られちゃったとか」
触らぬ神に祟りなし、と早々に退室したアニスは、フローリアンと共に廊下を歩きながら、小声で呟いた。
「ほんめい?」
「うん、一番好きな人のこと。あれはかなり傷ついてるとみたね。一見怒ってるみたいだけど、本当はすごく……」
「僕、アニスが一番好き!」
「やだーフローリアンってばー♪」
「へえぇ、あいつがどうしたって?」
フローリアンとつつき合っている中、背後から耳元に話しかけられてアニスは飛び上がった。
「へ、陛下ぁ! 驚かせないで下さいよぅ」
「よぉアニス、フローリアン。クッキー美味かったぜ。お返しをやろうと思って探してたんだ」
振り向くと、健康的な褐色肌に眩い金髪のマルクト皇帝、ピオニーが人懐っこい笑みを見せた。
「えっお返しですか?」
アニスはきらりと目を光らせる。彼女達は謁見の申し込みをしていたが、皇帝不在だったので、クッキーだけ預けてジェイドの元へ向かったのだった。
しかしこうして謁見の間でなくともそこらでばったり会えるのだから、この皇帝の身持ちの軽さには感服してしまう。
「で、俺のジェイドがどうした? 教えてくれるよな」
「え、えっと、そのぉ」
含みのある笑顔を向けられ、アニスは苦笑いで口籠もる。
ピオニーは、プレゼントの入った透明な袋を二つ分、少年少女らの前にぶら下げた。
「わぁ、ブウサギだ! 可愛い!」
「……………………」
フローリアンの純真な笑顔に、アニスは洗いざらい喋らざるを得なくなった。
「…………という訳なんですけど」
「……成程。昨日からあいつ、様子がおかしかったのか。俺も変だと思ったぜ。今年に限ってチョコなんて作って来るんだからなぁ」
アニスに一通り説明をさせたピオニーは、腕を組み、興味深げに唸った。
「大佐にそんな人間らしいとこがあるなんて、ちょっとびっくりですけど……本当に振られてたら可哀想ですよね」
だから悪戯に触らないでやってくれ、ととばっちりを喰らいたくないアニスは暗に言う。
ピオニーはうんうん分かった、という尤もらしい顔で頷き、ぱん、と両手を叩いた。
「よし。これは幼馴染である俺が、一肌脱いでやらんといかんな」
「え」
彼の青い瞳は、新しい玩具を見つけた子供のように爛々と揺れていた。
今すぐに城を出よう。アニスはブウサギのもこもこスリッパに無邪気に喜ぶ、フローリアンの腕を握り締めた。
やがて、日はとっぷりと暮れ、空には譜石のかけらが瞬き出した。研究員達は一部を除いて、帰り支度を始めている。しかしジェイドはまだ実験室で一人、薬品の研究を続けていた。
途中ガイやアニス達から貰ったクッキーを食べたが、腹の虫は治まらない。食堂でカレーも食べたし、揚げ出し豆腐も食べたし、月見うどんもクリームパフェも食べた。研究職に就いてからは食事量を調節していたが、今日だけは構わないのだ、と自身に根拠のない承諾を出した。
花束はガイの部屋に置いてきた。ミニタルロウXは皇帝の部屋に捨てた。寄り添って帰宅するカップルを見たくないので、カーテンも閉めてある。
何をやっているのだろう。結局、奴はこちらなど見ていなかったのだ。年甲斐もなく、一人浮き足立って、自分があまりに情けない。そりゃあ、自分よりも妙齢の女性に贈り物を貰う方が嬉しいだろう。ついでに愛の告白などされたら感涙して小躍りするだろう。彼が自分に謳う愛情は、恋愛のそれではない。
そこまで考え、なら自分は本当に恋愛を欲していたのか? と思いかけ、脳が固まった。思考に塞栓が詰まったようになった。
最早、今は何も認めたくはない。ジェイドは思考を放棄し、手の中の作業に没頭していた。
ぎぃと扉が開き、腰が曲がるのではないかと思う程、がっくりと肩を落としたサフィールが、設計図を手に部屋に入ってきた。
「はぁ〜……あ、ジェイド、ここの部品やっぱり変えた方が……ジェイド、聞いてます?」
「…………」
「もう、いい加減無視しないで下さいよ。何でずっと怒ってるんですか」
サフィールは呆れたように言ったが、しかしジェイドは口を噤んだまま返事を返さない。彼はあれからも何度かジェイドを訪ねていたが、徹底的に無視を決め込まれているのだった。
ジェイドの正面にくるりとサフィールが回りこんだ。ずいと無遠慮に距離を詰め、ジェイドの仏頂面を覗き込む。
「ジェイド、どうしたんですか? ちゃんと言ってくれないと分かりません」
しかし、ジェイドは何も言わず、即座に向きを変えて、別方向へと行ってしまった。
サフィールには怒るジェイドの腕を掴み、問いただす程の度胸はない。重い息を吐くと、もうどうしようもなくなり、傍の椅子にどかりと腰を下ろした。
「全く、ジェイドは機嫌悪いし、結局誰からも貰えなかったし……まあ期待なんて、してませんでしたけど! どうせ私は罪人ですしね! だけどジェイドは何をそんなに怒っているんだか。仕事の相談してるのに、大人気ないですよ?」
サフィールは拗ねたように唇を尖らせ、机の上に頬杖をついた。ジェイドも尤もだと思っている。だが、口を開けばあらぬ言葉が零れてしまいそうで怖いのだ。もうこれ以上醜態を晒したくはない。
そういえば、あの時の女性はまだ渡していないのか。しかしまだ日はあるし、いずれは渡すのだろう。その時のサフィールのにやけた馬鹿面が頭に浮かび、ジェイドの眉間に自然と皺が出来る。はたしてこれは怒りなのか、痛みなのか。自分でも定かではなかった。
サフィールの腹が、何の緊張感もなく、ぐぅと鳴った。
「は〜ぁ。ジェイド、夕食食べに行きませんか? 好きなの奢ってあげますから」
サフィールは微笑みかけるが、生憎ジェイドは満腹である。やはり返事を返さずにいると、サフィールはちぇっと詰まらなさそうに舌を鳴らした。
「もう私も帰ろうかなぁ。疲れたし、どうせ誰にも貰えないし。ジェイドはこんなだし……」
ジェイド、ジェイド、と名を呼ばれるのが不思議だ。もう構わないでくれたらいいのに。お前が欲しているのは、自分ではないのだから……などと、思わず口をついて出そうになり、ジェイドは唇を固く結ぶ。
作品名:Melty poison@Valentine(ディスジェ) 作家名:糸こん