Melty poison@Valentine(ディスジェ)
サフィールは眼鏡を掛けなおし、充血した目でこちらを見た。じっとりと見上げるその目は、恨みが篭められているように思えた。
「……朝の、話の、続きをします」
ジェイドは、もう勢いのままに何も考えず、チョコレートボックスをサフィールの目の前に置いた。
置いてから、心臓が激しく高鳴りだした。これで、後戻りは出来るまい。
「貴方の分です。受け取りますか?」
「へっ?」
サフィールは面白いくらいに素っ頓狂な声を上げた。丸くなった両目に、ジェイドの姿がくっきりと写し出されていた。
「……こ、こんなの……要りませんよ! どうせ私の分じゃないんでしょう! 余ったか何かで、それで私が拗ねたからって……!」
しかしサフィールは首を振った。愕然とした顔をして、更に目に涙を溜めている。
そんな顔を見たいのではないのだ。昔から虐めて遊んできたが、別段サフィールの泣き顔が好きな訳ではない。
「違います。貴方のです。赤いリボンは貴方の分なんです」
自分でも訳の分からぬことを言っていると自覚していた。心底馬鹿になっているのだ。今はそれでいい。馬鹿の方が、ややこしいことをうだうだと考えずにいられる。
「これは、貴方の為に作ったんです。受け取りますか? 要らなければ捨てます」
ジェイドは早口で言い切った。受け取らなければ誰にもやらずに捨てる。赤いリボンのそれを、サフィール以外に渡す相手などいる筈がない。
「……要る」
サフィールは箱を掴んだ。しゃくり上げ、涙と共に、次第に笑顔が溢れていった。
ジェイドも悲しいのか嬉しいのか、意図せず泣き笑いのような微笑を作っていた。
「うぅ……美味しいです」
早速箱を開けたサフィールは、ソファでチョコレートを頬張りながら、鼻をぐずらせていた。
ジェイドも向かいに腰掛けているが、サフィールをじっと見ているわけにもいかず、落ち着かない気持ちで瞳を動かしている。
「美味しい……こんなに美味しいもの初めて食べました」
「大げさすぎるお世辞は好みません」
「お世辞じゃありません! 本当に、プロのパティシエよりもずっと美味しい。それだけ、価値のあるものなんです」
サフィールは鼻白んだ。何故それ程に言えるのか、ジェイドにはやはり謎である。
「でも、本当は女性から貰いたかったのでしょう」
ジェイドの胸の早鐘は収まってはいなかった。肝心なことを言えていない。言わなければならないのだろうか。もうこれで充分のような気もする。サフィールは笑っているし、命令は遂行したではないか、と逃げ腰になってしまう。
「あれ、何で知ってるんですか? でもジェイドから貰えたので全てチャラですよ! 百人の女性から貰うよりも嬉しいです!」
「……何故?」
「何故って、ジェイドだから」
「……」
要領の得ない会話をしている。馬鹿同士の会話はこれだから困るのだ。
「……その百人は、全て義理なのでしょう。本命だったら、どうですか?」
ジェイドは、視線をサフィールから逸らしつつも、伺うように聞いていた。心臓が息苦しくて堪らない。自分は何を言うつもりなのだろうと、制御の出来ない感情に怯えのようなものすら感じる。
「ええっ? 本命百人とジェイド!? そ、それは貰ったことがないので何とも……」
サフィールは困惑して、小さく頭を掻いた。状況を想像してみたのか、頬が軽くにやけていた。
「…………」
ジェイドは無意識に彼を睨んでしまったのだろうか。サフィールは向かいを見て、びくっと小さく肩を揺らした。
「で、でも、ジェイドのだって義理じゃないですか……何でそんなことを比べるんですか?」
サフィールは苦笑していた。この男は何も分からないのだ。焦燥か苛立ちか、自分の胸の奥がもやもやと燻りを上げている。
「本命、だったら」
ジェイドの唇は、自分でも驚くような言葉を放っていた。
「えっ!?」
「いえ……例え話、ですが」
溢れ出た自分の言葉に、思わず口を押さえる。そのまま指をずらして眼鏡に添え、何とか誤魔化してみたが。
何を馬鹿なことを言っているのだろう。もうこれ以上無駄口を叩く前に、自分の口を縫い付けてしまいたい気分だ。
「ジェイドの、本命……? それって、そういう」
「……例え話ですから」
「そりゃあきっと、世界の見方が変わるくらい嬉しいと思います! ありえませんけどねぇ、ははは」
(…………!!)
サフィールは声を上げてあっけらかんと笑った。そしてまた、チョコレートを嬉しそうに口に運んだ。
(ありえない、か。前の自分なら、ありえないと言い切れただろうが)
サフィールと一緒に笑えない。嬉しいと言われたのに、想いを伝えても拒絶されないかもしれないのに、どうしても引っかかるものがある。次の言葉が続けられない。
「ジェイド? どうしたんですか?」
サフィールはジェイドの空気を敏感に感じ取ったのか、不思議そうに眉を上げた。
「……何も」
「そういえば、もう機嫌は直ったんですか? 随分怒っていましたけど」
「怒っていません」
腹を立てていたとしたら自分に向けて、だ。奴の奇行っぷりにも呆れ返ったが、このチョコレートがなければ、ただ呆れるだけで済んだものを。ジェイドはひっそりと歯噛みした。
「ジェイド、嫌なことがあるなら何でも話して下さい。私が悪いなら謝ります。何で教えてくれないんですか? いつもは背筋の凍るようなことをずけずけと言うくせに」
サフィールは立ち上がり、ジェイドの隣に座った。急激に狭まった彼との間隔に、ジェイドは体温が上がるのを感じた。
しかし、サフィールが女に現を抜かして自分を見なかったからだ、などと言えるわけがない。
「こうしてまた一緒に研究するようになって、もっともっと貴方のことを知りたいし、もっともっと距離も縮めたいんです。今回チョコレートをくれた意味だって気になるし」
「意味、とは?」
言われて、どきりと心臓が跳ねた。義理だろうと言い切ったくせに、他にどう思っているというのか。もしかして、もう気付かれてしまったのだろうか。
「だって、どういう心境の変化なんだか。一瞬、何の罠かと思いましたよ」
「罠……」
そういう心配か……ジェイドの胸にずん、と重りが落ちた。確かに、そう思われても仕方のないようなことを自分はしてきたが。この場面で素直に言われると、ずきりとくるものがある。
「……」
「あ、いや、ジェイド、ごめんなさ……」
サフィールもまずいと思ったのか、ジェイドの顔を覗いて、謝罪の言葉を口にしかけた。
その時。
「あ……? うっ……く……!?」
突然、サフィールが低い呻き声を上げた。明らかに顔色が悪い。胸のシャツを掴み、口をぱくぱくとさせている。
「サフィール? どうしたんですか」
「何か……くるし……うぅ……!」
(苦しい……? あ……まさか、チョコレート……!)
その時になって、ジェイドは、ようやく思い出した。酔いと朝の揉め事もあって、すっかり忘れてしまっていたのだった。
サフィールのチョコレートに、得体の知れない何かを、ノリで入れてしまったことを。
(……すまない、サフィール。それは本当に、罠だったようです……)
作品名:Melty poison@Valentine(ディスジェ) 作家名:糸こん