Melty poison@Valentine(ディスジェ)
ジェイドは久々に、過去の自分を殴りたくなった。しかしゆっくり後悔している場合ではない。サフィールの額には、尋常ではない冷や汗が滲み出している。
「う、うぐっ……」
「サフィール! 大丈夫ですか? 医務室に」
ジェイドは彼の腕を肩に掛け、医務室へ運ぼうとした。
医師に何と説明すればいいのだろう。チョコレートを見せ、うっかり罠にかけてしまいましたと、いい歳をして言わなければならないのか。
「じぇ、ジェイド……!」
名を呼ばれた、と思った瞬間に、ジェイドの視界は反転した。
背中に弾性のある衝撃を感じた。ソファだろうか。見上げると、熱に浮かされた目をしたサフィールが、自分に覆い被さっていた。
(…………)
ジェイドは状況を把握し、頭の先から爪先まで痺れ上がった。身体中の筋肉が弛緩していた。脳まで麻痺したようで、先の思考が真っ白になった。
「う、あ……はあっ、はあっ……ジェイド……ご、ごめんなさい」
サフィールが荒い息を吐いている。しかし、その声は何かに縋るように感じた。
圧し掛かる彼の体温は激しく上がっている。潤んだ瞳、上気した頬。そして、自分の太ももにはズボン越しに、昂ぶったそれが存在を示していた。
ジェイドはあの薬の効能を悟った。媚薬の類か。成程、『恋の秘薬』という名称で、何となくそんな気はしないでもなかったが。健全な青少年になんてものを渡すのだろう、その店は後で摘発してやらねばならない。
「ジェイド……あ、あの」
サフィールは口籠った。ああ、それは辛いだろう。サフィールは全身熱の塊になったのかと思うほど熱くて、背中から湯気が立ちそうだ。自分を呼ぶ声は切なげで掠れていて、普段にはない艶っぽいものが帯びている。呼吸もかなり乱れていて、心臓が苦しいに違いない。
だがジェイドには、男同士で何をすればいいのか分からなかった。そもそも、押し付けられた身体は脱力したまま、まだ力が戻らないのだ。
「サフィール…………どうぞ」
ジェイドはわけの分からないままに承諾の言葉を発していた。
「はっ!?」
サフィールは目を白黒させて裏返った声を上げた。
自分からどうすればいいか分からないので、取りあえず言ってみたのだった。苦悶の彼がどうにも哀れで、罪悪感が胸を過ぎっていた。罠に掛けるつもりはなかった。少なくともさっきは。
いやそれはおかしい、と気づいたのは言ってからだった。脳がどろどろに溶けてチョコレートになっているように思えた。完全なる馬鹿である。そもそもまだシャワーも浴びていないし、同性との経験もないし、何をされるかも分からない。きっと後悔する。後でこいつを殺して自分も死にたくなるかもしれない。いやそういう問題だろうか。ここは研究所のソファで外部で公序良俗に反するのでは。第一鍵も掛けていないのに。というかこれは一足飛びどころか三足位跳んでいる。まだ自分の言葉も伝えていないしこいつの気持ちも聞いていない。欲望に任せて今転がり落ちていいのだろうか。いや、その前に、自分はどうしてこいつに、こんな奴に、生涯の下僕に、ただのペットに、鼻垂れのチビだった奴に、床の埃以下で馬鹿でうざくてしつこくてゴキブリ並の……
「……ジェイド」
ひっくり返した玩具箱に更に玩具を追加して掻き混ぜたかのようなごちゃごちゃの纏らぬ思考の中、気付けば眼前にサフィールの顔が迫っていた。
彼の銀髪がさらさらと頬をくすぐり、熱い吐息が当たっていた。サフィールは、チョコレートの甘い匂いがした。眼鏡はいつの間にか外れている。分厚い眼鏡の奥の、素顔を久しぶりに間近で見た。幾らなんでも近すぎるのだが、この歳にしては、まあまあ若々しいじゃないか。
チビで間抜け面だった幼馴染は、ぞくりとする程、男の顔をしていた。
(ああ、ええと)
唇がぶつかる、と感じた時、心臓が、この日一番に大きく弾けた。
やっぱり今の私はチョコレートなので豆腐くらいに固まっている時にして下さい、という言葉が一瞬で頭をすり抜けて、そして最初からなかったかのように消えた。
「…………っ、わ、わわ、私、か、風邪をっ!! 引いたようで!! 熱が!!」
しかし、降りてきた唇はジェイドの唇を避け、脇の肩へと勢いよくダイブしていた。
「す、すみません、もう寝ます!!」
サフィールはがばりと起き上がり、身体を離すと、小走りで部屋の奥へと消えていった。あちこちに身体をぶつけて悲鳴を上げながらも、備え付けられた仮眠室へと転がるように入っていく。
「…………」
ジェイドは、目線を自身の身体に向けた。
つい先程まで重みを感じていたそこには、ぽっかりと空間が開き、流れる空気がいやに冷たく自分の身体を撫でていた。
(…………ええと)
少し頭を冷やしてみると、如何にとんでもない状況であったか分かった。サフィールといきなりあんなことになるなど、いつもなら張り倒しているだろう。
しかしそういう状況に陥ってしまったのも自業自得である。サフィールは被害者だ。信じたところを裏切られたのだから。
(本当に、私はそれでもよかったのか。あのまま、なし崩しに関係を持ってしまっても)
あの時の自分はそれでよかったんだろう。嫌だとも思わなかった。本当にとことん重症だ。
(この想いは、紛れもなく……)
ジェイドは眉間を押さえた。屈辱的で腹立たしいが、自分は本気であれを欲しているのだ。それも、心だけではなく、身体ごと。
自分は、本気だ、そう確信して変わる事象があるなら、受け入れてみても面白いかもしれない。
ふと、仮眠室が気になった。サフィールはまだ苦しんでいるのだろうか……ジェイドは胸を痛める。あの手の薬は縁がないので分からないが、きついものだと何時間も状態が続くらしい。
自分に出来ることはないかと考える。今から解毒剤を作ってみるか。いや、そんな時間を掛けていられない。身体を冷やす氷でも持っていくか。冷たい飲み物でも淹れてやろうか。
何か役立つものはないかと鞄を漁ってみると、ピオニーから貰った小箱があった。彼のくれたものである、中身は何なのか、開けてみる価値はある気がした。
ジェイドは包装紙を開けた。
中には、紐のついた男性用の下着と、ミニコロン、ついでに何の気を遣われたのか、ローションも入っていた。
(……………………アニ〜〜〜〜ス!!!)
思わず床に頭を打ち付けたくなった……が、今の状況はこうである。普段なら即座に窓からぶん投げているところだが、それを躊躇してしまうのが忌まわしい。
(…………さっきは、私を求めていた筈だ。多分。もう……別に減るものでもないし)
薬に魘されて、そこにいる相手なら誰でもよかった可能性もあるが……それも仕方がないだろう。むしろここで既成事実を作ってしまえば、後々話を進めやすいのではないか。これはチャンスだ、どうせなら薬を利用してしまえと、自身の魔が囁いている。
ジェイドは覚悟を決めた。即効でシャワーを浴びにいき、どうせなので下着も新品のそれに履き替え、入口に鍵をきっちり掛けて、仮眠室の前に挑んだ。
作品名:Melty poison@Valentine(ディスジェ) 作家名:糸こん