『唯人』
事の始めは死にゆく眼前の父、言わんとしていた事は“覇王を倒せ”
「覇王に先駆けて復活した奴」
「…倒さなければならない」「奴?」
「蘭…」
今際の際の父の言葉に今にして思えば使命感を持ち、途切れたその言葉の主……サスケが忍びとして育ち、天舞四人衆の内の一人として生を終えていたとしたら、たとえ邪悪の化身の下の者であろうとけして、関わる事はなかっただろうその者を追い、彼方西南の暑き地、南琉本島までに赴いた事も、もう遥か前の様に思われる。
はっきりとしない意識の中、彼が近くに思う事はこの所謂“大いなる戦い”に対しての感慨でも、
(ここに至る前に、天魔は……)
凶明十五年の今の者達が恐れ怯え、または吐き捨てる様に言う彼の者の言わば通称でなく、誰もそう言わない、知る筈がない呼び名で覇王……サスケの近くで死骸となり倒れる男を意識せずに呼び、愕然とする。俺はもう俺ですらないのか。
……同じ血を持つ者達との邂逅、時に戦いの中で形にこそ現れないが自らではない、だが自らであった“何か”を感じ出し、その“何か”はさながら血溜まりの戦場の様な三途の原で過去の者と戦い、その血河を渡りて……黄金城内の封印を解き、覇王と対峙し、斬られ、斬る中で非常に鮮明なものとなっていった。
(そうだ、天魔……が、どれ程の事を。自分達にしてみれば行ってはならぬ事を……しかし奴にしてみれば、どれ程の大事で計算を重ね考え抜き今に至ったのか、そんな事は)
「どうでもいい」
と、戦い先刻殺害した男の今に至るまでの過程と、彼等の念に対する思いでもなかった。
八年。会わなかった片親の命懸けの遺言も彼が倒せと言った人の噂の中に耐える事のなかった三百年前の寵臣も、それ程の彼方から力を求め続けていた男の、数え切れぬだろう目に余る行いも、彼にとって最早そう思えてしまう事となった。
ぼやけた視界の中でサスケが思う事は、何でもない時の頃の事であった。
サスケは思い起こす。
十一歳……頃であったと思う。
あの時から天舞の里を出てしまうまでの八年間は、自分にとって最も……幸せだったのだろうか。幸せと言うよりは、代え難い日々だったのだと思う。
出会いは真昼だった。
その時ばかりは霧はなく、そよぐ風と少し暑い位の日が湖面を瞬くように照らしていた。……あの橋。
友であった者……ザジと、彼に初めて会った場所。
握手を求めたサスケに対し渋々と出された子供の手。
怒りと痛みがない交ぜになった様な表情
彼
彼はいつでも不器用で。
ぼやけていた視界が潤み、かすむ。
“彼”の名は今、言えない。
口に出せない。
心の中で言う事も勇気が必要だった。
言えば……脱力と虚無感に覆われた自らの心の内を渦巻く実の思いが止まらなくなる。
(……)
この国時叛宮の忍びの流派の頂点である天舞四人衆の一人となり。
俺も彼も、その最高機関に就き、大役である肩書を受けるには年齢だけが到底足りなかった。互いに中忍下忍、上忍も従え統率し、四人衆の一員として畏れ敬われていても俺と彼は好敵手であり、争いもし助け合いもした無二の親友であった。
彼もそう思っていてくれていただろうし、四人衆になろうと彼は彼であった。
不器用な彼。
奥底に思いを秘め、重ね続け、塞ぎ、隠してしまう彼。
不器用な彼。
抜け忍となった俺の追手となった……と聞いた。
覇王封滅の旅に出て二昼夜、俺が手に掛け首の骨を折った友。
そのザジの息も絶え絶えの血まみれの口から。
あの、絶対に冷徹になどなり切れない、もろく、温かい……だからそれが「不器用な」心に踏ん切りを付ける為に彼は決意したのだろうか。
忍びの掟。抜け忍には死あるのみ。
生真面目過ぎる男だったから、その言葉を絶対のものとして。
俺もザジも内心、好んでいた彼のやわらかな心を言葉で固め、覆い、隠して。
……朧橋
彼と俺の出会った場所。
サスケの心の内を形なき思いが駆け巡り、溢れる。
(どうでも……よくない)
この思いだけは。
もう保たぬ自らの身。今の自分にとって、これだけは捨て置くべき思いではない。
“あの時俺は誤った選択を行った。”
三百年の時を経て血の宿命に導かれた戦鬼、の内の一人としては極めて真っ当な行動であった。
あの時までは父の遺言に対する使命感があった。
復活しようとしている覇王、今の権力者達を影で操り戦乱を起こしている者。
……誰があいつ等を止めなければいけないのか。
それを成さねばならないのは恐らく、他の戦鬼ではなくこの俺だと。
そうして、“サスケ”としての自らを捨てた自分。
まだ三百年前の形無き物共は曖昧であったが、もうすでにこの時から自分はサスケではなく
「……十人衆の上で己の一族をたばねる天聖の龍叉」
呟く。何と言う肩書なのだろう。
そうして、先を行こうとしていた。
里を出て三日目の夜。ひどく霧の立ちこめる岩場と小さな祠の建つ場所。
押し退けられた霧
浮かび上がった一つの人影
朧橋
彼と俺が出会い、俺が彼を……
サスケはカムイを殺した
己の一族として目覚めかけていた天才を。
無二の親友であった男を
血の宿命に導かれた十人の戦鬼の内、俺だから彼等を倒さなければならないのだと言う責任感。
次に湧き上がり、黄金城内に辿り着くまでには最早止まらなくなっていた覇王への憎しみ。
今、それらは全て消失していた。
亡父の言った使命を果たした達成感はない。
焼ける様に熱を持った打たれた腹、未だ血の止まらぬ数ケ所の深い傷、戦闘が終わり少し過ぎたが、処置する気は起こらず今もただ放って置いている。
横たわる様に座り込む今のサスケの心中に吹き荒れるものは強い喪失感と
……自己嫌悪だった。
肉親とは言え八年、会う事のなかった者から伝え聞いた使命宿命、そこへ辿り着くまでに朧気に気付いていった自らの体を流れる血と自らの遠い記憶。
「奴等などの為に……こんなものなどの為に……」
命を賭してサスケを悟し、檄を飛ばした友。
日々を共に過ごしていた仲間達。
忍びの思い抱く幸せなど、只人からすれば話にならぬ程の僅かな小さなものだろう。
だが、十一の歳の頃からその日が来てしまうまでの日々は彼にとって代えられぬものであった。
天舞の里。天舞衆の者達がいて二人の上官がいてザジがいた。
……今はもう形にもない遥か過去を知っていく過程で失っていったそう言うもの達。
そして、覇王達を倒す為に亡くした者、殺した彼。
(何もなくなってしまった。)
同郷の者達、ザジ、そして彼。
何にも代えられぬ者達を手に掛け、この時はまだ倒すべき者達がいたから、手に掛けた事への自らへの怒りも憎しみに換え、その心のまま彼等に向かい先刻、思いの根源であった者を殺害した。
殺すべきであった者達、殺さなければならなかった者、殺してやると思った者。
全て自らがこの手に掛け、今はもう何も残らない。
ただ、天舞の里を抜け、今に至る過程まで、サスケは常に引き裂くかの如くその時々の強い思いに囚われていた。
初めは責任と使命、この時はまだ正常であったのではないかと思う。
仲間を友を彼を殺し、この身が潰れる程大きく膨れ上がり持て余していた覇王達への憎しみ。