サメと人魚
暑さに、くらり
透明の自動扉が開いて、そこから店の外へと出ると、強い日射しがカッと照りつけてきた。
キンモクセイの花が咲いて甘い香りのする季節であるのに、昼間は夏のような暑さだ。
凛の格好も夏のときとほぼ変わらない。ローライズジーンズに、半袖シャツ、その首もとにはペンダントの紐があった。
今日は日曜で、水泳部の練習もない。もちろん日々の習慣である筋力トレーニングは自主的に行い、空いた時間にふと気が向いてスポーツショップにひとりでやってきたのだった。
けれども気に入る物がなくて、結局、なにも買わずに店を出た。
涼しい店内から、一転して、外の暑さ。その暑さに気を取られた。
それから歩道のほうへ進もうとし、視線の先によく知った者の姿があるのに気づいた。
凛は驚く。
そして、眉根を寄せた。
歩道に遙がいる。
偶然だ。遙が今日この時間にここに来ることを知らなかった。凛にしても、ふと気が向いて来ただけで予定外の行動であるので、遙も知らなかっただろう。
遙はひとりではない。
けれども、遙といるのは凛が知っている者ではなかった。
大学生ぐらいの男がふたりだ。
「んー、やっぱり、よくわからないな!」
片方の男が軽い調子で言った。
「申し訳ないんだけどさぁ、道案内してくれない?」
もう片方の男も言う。
「お礼になにかおごるから、お願い」
明るく笑い、遙に向かって拝む仕草をした。
凛は彼らのほうに近づいていく。
やがて、遙の背後に立った。
遙が振り返る。
驚いた表情になった。
「凛」
呼びかけてきた。
だが、それは無視して、凛は男ふたりのほうに鋭い視線を走らせる。
「コイツになんの用だ?」
不機嫌を一切隠さずに問う。
男たちはぎょっとし、さらに気まずそうな表情になった。
「えっ……と、俺たちは、ちょっと道聞いてただけ」
「そうそう。このへん、あんまり詳しくなくてさぁ、道がわからなくなったんだよね」
あいまいな笑顔で男たちは誤魔化そうとする。
それを。
「はぁ?」
凛は強い声でさえぎった。
「携帯、持ってねぇのか? 道がわからねぇんなら、携帯で調べりゃいいだろ」
声に怒気をにじませ、男たちをにらみつける。
相手は自分よりも年上らしく、それにふたりだ。
しかし、退く気はこれっぽっちもない。
その凛の迫力に、男たちは完全に押された様子で息を呑む。
少しして、彼らは口を開く。
「あ、ああ、そーだった、そーだった、携帯か」
「携帯で調べるって手があったんだよなー」
無理矢理に作ったような笑顔で口々に言う。
「じゃあ、俺たちは、これで!」
さっと身をひるがえし、逃げるように去っていく。
「……結局、携帯で調べてねぇじゃねーか」
ボソッと凛は吐き捨てる。
「凛」
ふたたび遙が呼びかけてきた。
そちらのほうを凛はチラと見る。
いつもの無表情。
その変わりのない様子にイラ立ちを覚える。
「ちょっと来い」
近くにある遙の手をつかんだ。
そのまま凛は歩きだす。
遙も、凛に手を引っ張られる形で歩きだす。
空からは相変わらず太陽の強烈な光が降りそそいでくる。
頭の中が真っ白になりそうだ。
暑い。
凛はあの男たちが去っていったのとは違う方向へどんどん歩いていく。
不愉快な感情が胸にうずまいている。
あの男ふたりへの怒り。
無防備な遙に対するイラ立ち。
「……真琴はどうした」
低い声で、斜めうしろにいる遙のほうを振り返らずに問いかける。
「真琴は家族で遊びに出かけた」
いつもと変わらない声で遙が答えた。
だから、ひとりでここに来たのか。
そう思い、直後、いっそう胸がムカついた。
なんでオレはコイツに真琴のこと聞いてんだ。
コイツのそばにはいつも真琴がいて、真琴がコイツを守るのがあたりまえだと思ってるからか……!
腹が立つ。
むしゃくしゃする。
暑さが、拍車をかける。冷静にはなれない。
「ひとりで出歩くな、なんて言わねぇ。だが、あんな見えすいたナンパに引っかかるんじゃねぇ」
語気荒く、遙に言った。
「なにを言っている」
いつもよりは少し強い声で遙が言い返してくる。
「道を聞かれたから、教えていただけだ」
イラ立ちが頂点に達した。
凛はこれまで以上に強く遙を引っ張った。
とっさに対応できなかった遙が体勢を崩し、その隙を突いて、凛は遙の肩をつかんだ。
店の壁へと遙を押しつける。
あたりに自分たち以外ひとはいない。
背中が壁につく形になった遙を、その顔を、凛は真っ正面からにらみつける。
「男、なめてんじゃねぇよ」
凄みのある声で告げた。
遙の眼を強く見すえる。
それに対抗するように遙の瞳が強くなる。
だが、もちろん退く気はまったくない。
「道がわからないなんて嘘だ。おまえをどこかにつれていきたかったんだ。それで、なにかしたかったんだ。男ふたりでな」
怒りが身体中に広がる。
あの男は遙に道案内を頼んでいた。
遙をどこに誘導するつもりだったのか。
男ふたりで遙をどうするつもりだったのか。
想像すると、怒りが煮えたぎる。
遙が鋭い表情で口を開く。
「そんなのは、実際どうだったかわからない」
非難するかのような硬い声。
凛は奥歯をギリッと噛みしめた。
コイツはなにもわかっていない。
それなら……!
胸にあるのは激しい怒り。それは熱い。
その感情に支配されて、その熱さに押されて、動く。
遙を壁へと押しつけている自分の手の、片方を移動させる。
その手で、遙の頬に触れる。
遙は強い眼差しをこちらに向けたままだ。硬い表情で口を引き結んでいる。
自分たちの距離は近い。
それをさらに縮める。
遙のほうへ身体を近づける。
まだ距離はある。けれども、遙の体温が伝わってくるように感じる。
体温が上昇する。
暑い。
暑い。
熱い。
遙の顔を逃がさないようにする。
一気に距離を詰める。
そして、その唇を。
だが。
凛は遙の顔から手を離した。
遙から顔を背け、手を壁へと叩きつける。
できなかった。
奪おうと思った。
でも、できなかった。
好きなのに、できなかった。
好きだから、できなかった。
凛は遙から離れた。
そして、遙のほうを見ないまま身をひるがえす。
太陽が照りつけてくる中、走り出した。
残された遙は壁を背に立ったままでいた。
「……あいつはなにがしたかったんだ」
しばらくして、そうつぶやいた。