サメと人魚
知らなかった / 知ってた
放課後、遙は職員室を出てしばらく行った先の廊下で凛が向こうから歩いてくるのに気づいた。
岩鳶高校の落ち着いたブレザーとは違い、鮫柄学園の白い学生服を着ているので、目立っている。いや、たとえ同じ制服を着ていても、その体格の良さと端正な顔立ちで凛は人目をひく。
凛も遙に気づき、少し眼を細める。眉間にシワが寄った。
双方ともに歩いているので距離が縮まる。
「……うちの学校になんの用だ」
凛の近くで足を止めた遙は感情のこもらない声で問いかけた。
「そっちの顧問の先生に、次の合同練習の話をしに来た」
素っ気ない声で凛が答えた。
岩鳶高校水泳部顧問の天方先生に会うために職員室に向かっているところらしい。
「もう屋外じゃ無理だ。うちの屋内プール使えるのはありがたい話だろ」
合同練習は鮫柄学園で行うつもりのようだ。
たしかに凛の言うとおり、気温の低くなったこの時期に岩鳶高校の屋外プールは使えず、水泳の強豪校である鮫柄学園の設備の整った屋内プールを使えるのは、ありがたい。
凛はすっと遙の眼から視線を外した。
これで話は終わりだと言うように。
それからその身体が動く。
歩きだす。
職員室へ行くために。
遙は職員室とは逆の方向に進もうとした。
話は終わりでいいと思った。
けれども、なにかが胸に引っかかるのを感じた。
小学生のころの凛はよく喋りよく笑っていたが、オーストラリアでの水泳留学から帰国して鮫柄学園に編入し、廃墟となったスイミングクラブで遙たちと再会したころには雰囲気がすっかり変わってしまっていた。
それが地方大会後にまた変わった。
さすがに小学生のころのようにまではもどらず、ぶっきらぼうな話し方をしたりするが、ときおり笑ったりすることもあり、遙たちに対して取っつき悪い態度はほとんどしなくなった。
しかし、最近、また素っ気なくなった。
いつからかと振り返ってみると、秋なのにやけに暑かった日にスポーツショップの近くで凛と会ったとき以来の気がする。
あのとき、凛はイラついていた。怒っていた。
なぜ怒っていたのかは、わからない。
「凛」
去っていこうとするうしろ姿に遙は呼びかけた。
そうしなければ、やっともどってきた仲間をふたたび失ってしまうような気がした。
凛が振り返った。
切れ長の眼を遙に向ける。硬い表情。呼び止められたことを快く思っていない様子だ。
その視線を受けて、遙は話すことがないことに気づいた。
とりあえず呼びかけただけ。
だが、そんなことは言えない。
なにか、理由を。
呼び止めた理由を話さなければいけない。
遙は口を開く。
「英語を教えてくれないか」
そう思いついたままに言った。
凛が眉根を寄せる。
遙は続ける。
「さっきまで職員室にいたのは、英語の先生に呼びだされたからだ。中間テストの結果が悪かったんだ」
「悪かったって、どれぐらいだ?」
「学年最下位だった」
そう遙が答えた直後、凛は眼を見張った。かなりの衝撃を受けたようだ。
「おまえ、オレと同じ学校だったとき、成績優秀じゃなかったか!?」
凛はそう問いかけたあと、ハッとした表情になる。
「あ、でも、小学生のころの話だからな。昔と今じゃ変わっててもしかたねぇよな、うん」
「言っておくが、英語以外の教科の成績は良いほうだ」
英語以外はトップクラスである。
「じゃあ英語だけが陥没してってワケか。てゆーか、谷底……」
凛が遠い眼をした。
けれども、少ししてその眼が遙のほうに向けられる。
「わかった」
凛が真剣な顔つきで言う。
「教えてやる」
その手をあげ、遙の肩をガシッと力強くつかんだ。凛の本気が伝わってくる。
肩をつかまれながら遙は、面倒くさいことになったな、と自分が言いだしたことを後悔した。
「おい、ハル、寝るんじゃねぇ」
凛の厳しい声が飛んできて、遙は眼をさました。
うつむいていた顔をあげる。
七瀬家の居間だ。
机をはさむ形で遙と凛は向かい合って座っている。
頭上の灯りで部屋は明るいが、それでも部屋の隅に落ちた陰や縁側に面した障子などから外が暗いことを感じさせる。
今は夜だ。
遙は眠りからさめたばかりのぼんやりとした頭で現在の状況を把握した。
その眼を机の上に開かれている本のほうへやり、口を開く。
「呪文が書いてあるように見えて眠くなった」
「呪文じゃねぇよ、英語だ!」
噛みつくように凛が言い返してきた。
それから凛は頭をおさえ、ハァとため息をついた。
「ここまでヤバい状態だったとはな……」
今日の放課後に宣言したとおり、凛は遙に英語を教えるために七瀬家にやってきた。
あのあと凛は職員室に行って合同練習の話を天方先生として、それが終わると鮫柄学園にもどり、鮫柄学園の水泳部に顔を出してから、ここに来たので、今は結構遅い時刻である。
ここにやってくると、まず遙の英語の実力がどのぐらいであるのかを知りたいと言って、中間テストの答案用紙を見せろと言ってきた。
学年最下位を記録した分なので点数が良いはずもなく、物事にこだわらない遙でもあまり他人には見せたくない代物であるのだが、適当な言ったことだとはいえ英語を教えてほしいと自分が頼んだので、渋々、答案用紙を凛に見せた。
結果、答案用紙を見た凛はしょっぱい表情になった。
そして、勉強を始めたのだが、英語の長文問題をまえにして遙は睡魔に襲われたのだった。
凛は切れ長の眼を遙に向ける。
「眠くなるのは、なに書いてあんのか読み取れねぇからだろ。おまえは基礎の部分が欠けてるんだ。基礎が欠けてたら応用はできねぇよ。だから、欠けているところまでさかのぼるぞ」
「……」
「今、めんどくせぇって思っただろ」
そう指摘されて、遙は一瞬眼を大きく開いた。
すかさず凛が言う。
「それぐらいわかる」
しかし、なぜか凛は眼をそらした。
「真琴じゃなくてもな」
「……」
遙は小首をかしげた。
たしかに、真琴は遙がなにも言わなくても、無表情のままでいても、遙の思っていることを言い当てたりする。それを周囲の者たちは知っている。あたりまえのことなのだ。そのあたりまえのことを言った凛の様子が少し妙であるように感じた。
なにか、こだわっているような。
けれども、真琴と凛は専門が違うのでライバル関係にあるわけではなく、こだわる理由はないはずだが。
凛がふたたび遙のほうを見た。
「じゃあ、まず英単語から行くか」
「……」
やっぱり、面倒くさい。
そう遙は思った。