サメと人魚
さすがに毎日ではないが、夜に凛が英語を教えるために七瀬家へとやってくるようになった。
遙がひとりで問題を解いているあいだは暇になるので、凛は自分の勉強用の教材も持ってきた。
今夜も、そうだ。
遙は問題を解き終わって顔をあげると、机の上の教材のほうに眼をやっている凛の姿を見た。
その教材は凛の不得意科目である古文だ。
遙はその内容を読む。
そして、口を開く。
「あなたのことを恋しく想いながら寝たから、その姿を見たのでしょうか」
凛が顔をあげた。
眼が合う。
遙は続ける。
「もし夢と知っていたなら眼をさまさなかったのに」
凛がじっと見ている。
その眼差しは強い。
なにか言いたそうでもある。
どうしてそんな表情をしているのかわからなくて、遙は少し戸惑った。
説明すべきなのだろうか。
そう考えて、遙は言う。
「という意味の和歌だ」
「……んなこと、わかってる」
凛はぶっきらぼうに言うと、眼を伏せた。その顔にあるのは苦い表情。
わかっているのに教えられて、不愉快に思っているのだろうか。
教えてもらってばかりで悪いと思って、こちらからもなにか教えられることがあればと思って和歌を読み下してみたのだが、余計なことだったようだ。
とりあえず、この気まずい空気を切りかえたい。
遙は英語の問題を解き終わったことを凛に告げようとした。
ちょうどそのとき、呼び鈴が鳴った。
だから、そちらのほうに気が行く。
「ハルー」
外から呼びかけてくる声。
真琴の声だ。
遙は立ちあがる。
玄関のほうへ向かう。
やがて土間へおり、玄関の戸を開けた。
夜の冷たい風が入ってきた。
長身の真琴が立っている。
真琴は遙と眼が合うと、いつものように優しく笑った。
「母さんが夜食を作りすぎたから、ハルに持っていけってさ」
やわらかな声で言いながら小鍋を差しだした。
その小鍋を遙は受け取る。
「ありがとう」
いつも無表情な遙の顔に自然と笑みが浮かんでいた。
すると、真琴は嬉しそうに笑った。
そのあと、ふと、真琴の視線がよそに向けられた。
遙のうしろのほうを見て、真琴は言う。
「凛の分もあるよ」
遙は振り返った。
上がりかまちに凛が立っている。
真琴は笑顔のまま続ける。
「ハルに英語を教えてくれてるんだってね」
「……ああ」
「ハルが英語が苦手なのは食わず嫌いみたいなものだと思うから、勉強する気になって良かったよ」
遙は真琴のほうを見た。
それに気づいたらしい真琴が視線を凛から遙のほうへと移動させた。
真琴はおかしそうに軽く笑った。
「ああ、ハルはやればできるのにーとか言われるのイヤなんだよね」
そのとおりだ。
無表情でいたつもりだったが、心にあった不満をまた読み取られてしまった。
さすが長年の付き合いの幼なじみだ。
「だが、実際そうなんじゃねぇか」
凛がうしろで言う。
「教えてて、コイツ、これまで単にやろうとしなかっただけじゃねぇかって感じるからな」
だから、遙は凛を振り返る。
「やる気が起きないというのが、苦手ということだ」
「なにえらそうに言ってんだよ」
「努力できるのも才能のひとつで、英語に関してはその才能が欠けているんだ」
「断言すんな。努力しろ」
「……めんどくさい」
「おまえな!」
凛が非難するように声をあげた直後、吹き出す声が聞こえた。
遙はそちらのほうを向く。
真琴が軽く握った手を口に当てている。
そして、遙の視線に気づくと、優しく微笑んだ。
「ハルは凛と一緒にいると、いつもよりはよく喋るよね」
そう言われて、なぜか遙は真琴に対して説明しなければならないような気持ちになった。
けれども、遙が話し出すより先に、うしろから凛の声がした。
「それは、ハルがなにも言わなくても、おまえならハルがなに思ってるかわかるからだろ」
素っ気ない声。
凛が言ったことは、遙が言おうとしたことと同じだった。
遙は凛を見た。
しかし、凛は遙を見ない。
「オレは、ハルが黙っていたら、ハルがなに思ってんのか、ほどんどわからねぇよ」
凛は真琴のほうを見て、低い声で言う。
「逆もそうだ。オレがなにも言わなければ、ハルには伝わらねぇ」
その表情がゆがんだ。
凛は顔をそむけ、そのまま踵を返した。
去っていく。
居間へともどるのだろう。
「……ハル」
真琴が呼びかけてきた。
ふたたび、遙は真琴のほうを見た。
なんだ、と眼で問いかける。
だが、真琴は黙っていた。
少しして、真琴は口を開く。
「なんでもない」
真琴は明るく笑った。
それから。
「じゃあ、また明日」
優しい声で別れを告げ、遙の返事を待たずに身体の向きを変えた。
遙は真琴が帰っていくのを眺める。
しばらくして、遙は玄関の戸を閉め、それから居間へ向かった。