サメと人魚
季節は晩秋から初冬へと移り変わった。
いっそう気温は下がった。
特に夜は寒い。
そんな夜の中、今日も凛が英語を遙に教えるために七瀬家にやってきた。
呼び鈴が鳴ったので遙が玄関まで戸を開けに行くと、コートを着て首もとにはマフラーを巻いた凛が寒そうに立っていた。
岩鳶駅から七瀬家までは結構距離がある。
ここまで来るあいだに身体がずいぶん冷えたらしい。
冷気をまといながら凛は家の中へ入ってきた。
遙は、なぜだか、凛が自分の横まで進んできても動けずにいて、ただ凛を見ていた。
凛が不思議そうな視線を向けてきたので、それでハッとして、動けるようになった。
それから、いつものように居間に行き、勉強が始まった。
期末テストが近づいてきている。
英語の勉強の内容は基礎からテスト対策へと変更されていた。
勉強を始めてから時間が経った。
ひとりで問題を解いていた遙は、ふと顔をあげて、何気なく凛のほうを見た。
いつものように凛も勉強をしているだろうと思っていた。
だが、違った。
凛はうつむき、寝ていた。
ひとには寝るなと言ったくせに。
そう遙は思ったが、それを口には出さず、ペンを静かに置き、音をたてないように気をつけながら机の向こうにいる凛のほうへと近づいていく。
凛のそばまで行くと、畳にそっと腰をおろした。
それでも凛は眠り続けている。
疲れているんだろうな、と思う。
テストまえで部活動が休止であっても筋力トレーニングは続けているだろうし、こうして遙に英語を教えに来ているし、そのうえ寮で同室の似鳥にも勉強を教えているらしい。
ぶっきらぼうな態度を取ることがあっても、結局は面倒見がいいのだ。
兄だからだろうか。
遙は凛と初めて会ったときのことを思い出す。
幼いころの記憶。
あれは凛の父親の葬列だった。
白い着物のひとたちが道行く姿が異様な光景のように感じて、遙と真琴は足を止めた。
そのひとたちの中に自分と同い年ぐらいの少年を見つけた。
その少年が凛だった。
凛は妹である江の手を引いて歩いていた。
そして、自分に向けられる視線に気づいた様子で凛は遙のほうに顔を向けると、にらむように見返してきた。
あの少年が、今はすっかり大きくなっている。
筋力トレーニングを続けてきた身体はたくましい。
オリンピックの競泳の選手になるという夢を現実にするために努力し続けている。
でも。
迷わないわけではない。
その悩みを遙は凛から聞いたことがある。
凛は同い年の遙に勉強を教えられるほど頭がいい。進路指導の先生から難関大学の受験をすすめられるぐらい成績優秀でもあるらしい。
それに大きな挫折も経験している。
現実的とは言いがたい大きな夢を追うのであれば、この先もっと大きな挫折を経験することになるかもしれない。
「……もし英語が得意になったら」
遙はつぶやく。
「おまえがふたたび世界に出て、苦しんだときに、そばにいられるのかな」
手を伸ばす。
凛のほうへと。
これだけ熟睡しているのだから、触れても眼をさまさないだろうと思った。
けれども。
凛に触れる直前に、手首をつかまれた。
つかんだのは、凛だ。
遙は眼を見張った。
いつから起きていたのだろうか。
凛はうつむいていた顔をあげ、遙を真っ直ぐに見る。
その口が開かれる。
「本気でそう思ってんのなら、この先、オレと一緒に進んでくれ」
強い口調で凛は言った。
ひとりごとのつもりで言ったことを聞いていたらしい。
真剣な表情の凛に見すえられて、遙は身を少し退いた。
「おまえのように世界を目指すつもりはない」
泳ぐのは好きで、水泳の才能があると言われてもいる。
だが、自分は勝負にはあまりこだわらない。凛のように競泳の世界での頂点を目指すのには向いていないと思う。
「そういう意味じゃねぇよ。いや、そういう意味でもいいんだが、そうじゃねぇ」
凛が言い返してきた。
その内容がよくわからない。なにを言いたいのか読み取れない。
遙は戸惑う。
すると、凛はその端正な顔をゆがめた。眼を伏せる。
苦しそうな表情だ。
「凛」
思わず遙は退いていた身体をもとへもどし、呼びかけた。
直後、凛は眼を遙のほうへ向けた。
迷いのない強い眼差し。
「オレはおまえが好きだ」
はっきりと告げた。
それでも遙は迷った。好きというのがどういった種類のものなのか判断できなかった。
友情なのか、それとも。
まさか。
凛がつかんでいた遙の手首を放した。
そして、その手を今度は遙の顔のほうへ近づけていた。
自分のほうへ近づいてくる、凛の手。
たくましい、男の腕。
それを遙は意識した。
指先が頬に触れた。
皮の厚い手のひらが頬を包んだ。
まるで壊れやすいものにでも触れるように優しい。
その瞬間、好きの種類を理解した。
遙は身を退き、自分に触れている凛の手を払いのけた。
「おまえを仲間だと思ってる。だから、悩んでいるのなら聞きたいし、苦しんでいるのなら、そばにいたい」
知らなかった。
凛が自分に対して抱いていた気持ちを。
今まで、ずっと。
「でも、仲間以上には思えない」
遙は断言した。
強く言いすぎたかもしれない。
けれども予想外のことに頭が混乱していて、感情の高ぶりが声に出るのを抑えることができなかった。
凛は眼を遙に向けたままでいる。
その眼が細められた。
その顔にあるのは、静かな表情。
「……知ってた」
ぽつりと、凛は言った。
それから凛は眼をそらし、立ちあがった。
凛は自分の持ってきた教材を片づけ始める。
帰るんだろうと、遙は凛のほうを見ずに察した。
ただ、凛の足音を聞く。
その足音はやがて遠ざかっていった。
しばらくして、玄関の戸が開け閉めされる音が聞こえてきた。
凛は寒い外へと出て行ったのだろう。
遙は膝の上に置いていた手のひらを握る。
どうすればいいのか、どうすれば良かったのか、わからなかった。