スズメの足音(後)差分
ワンルームの玄関に入ると左手に短い壁があって、壁の向こうに狭いキッチン。その向こうの壁から突き出すように手狭な脱衣所兼洗濯機置場。その僅かなスペースを挟んで風呂場とトイレがある。玄関から見て突き当りに窓があって、窓に垂直に、川の字でベッドと長方形のローテーブルとテレビやカラーボックス、勉強机やなんかが置かれていてる。広くはないから一つ一つのモノの間隔は狭いものの、一人暮らしには充分な間取りだ。
スガはマメに片付けをするタイプではないから、遊びに来て無駄なものがひとつもなく整っていたことはない。その代わりに、雑に生活してもそれなりに片付くよう工夫している。取り込んだ洗濯物を放り込で畳む気が起きるまで放置するための大きなかごがあるし、頻繁に使う上着や財布やカバンをひとまとめに放り込んでおくかごもある。ローテーブルの脇にはマガジンラックがあって、読みかけの雑誌でも勉強道具でも何でも突っ込んでいた。自炊はあまりしないお陰でコレといった工夫をしていないキッチンスペースもそれほど散らかっておらず、隅にゴミ袋が少し溜めてあるばかり。いつ来てもそういう部屋だった。
玄関に入ってスガが目の前を退いた途端に飛び込んできた光景に絶句した。記憶にある部屋とあんまりに違いすぎて。
インテリアが違うとか、壁に趣味じゃないポスターが貼られているとか、そういうことじゃない。ただ散らかっている。スガの趣味と違う服がいくつかの山を作っていたり、雑誌やCDがテレビ前を中心に散乱している。物の量が多くて従来のスガ方式で片づけ切れていない。
驚きで玄関で立ち往生している間、スガはローテーブルにあった灰皿を素早くシンクに移動させた。スガはタバコを吸わないし、今まで会った大学の友人に喫煙者は多分いない。靴を脱いで歩きながらゆっくり部屋を見渡してもタバコやライターはなかったから、スガが吸わないのは変わっていないんだろう。だとすればきっと男のものだ。この荷物も全て。頭の奥がチリチリする。
「ご、ごめん、散らかってて……」
急いでローテーブルの上の本をどけ、テレビ前の床に積んだ。マガジンラックはすでにいっぱいだった。どうやってもテレビ前は簡単には片付かないので、ベッド側の物をどけて二人分のスペースを作ったスガは、座る暇なくキッチンに戻って冷蔵庫の中身を確認し始めた。確保してもらったスペースに腰を下ろす。何度も来ているスガの部屋なのに落ち着かなくて、ついあちこち見回してしまう。
そういえば、ボールが見当たらない。大体床に転がっているバレーボール。物が多くて埋まっているのかと目で探し、ベッドの下で発見した。ちゃんとあったことに少しホッとして伸ばした手がピタリと止まる。ボールの横に見慣れないものがあった。だけどそれがどういうものかわからないわけじゃない。
使いかけの潤滑剤のボトルとコンドームだった。あって当然だ。スガと男は恋人関係で、一緒に住んでいたんだから。
ちっとも考えなかったわけでもない。だけど、こうして現実を突きつけられて、頭の中が真っ白になった。三年間を一緒に過ごしたスガとそれらが結びつかないと思うのに、ショックから数秒かけて解凍されてきた頭はろくでもないことを考える。着替えであらわになる白い腹とか、合宿所の風呂で見たツルンとした背中。夏場にハーフパンツの裾を捲り上げて「ハーパン焼け!」と笑って見せられた日に焼けない太ももや、汗ばむ首筋。なんてことない、部活に捧げた日々の思い出が次々浮かんで頭を振っても振り払えない。
信頼して、信頼されて過ごした大事な思い出を下世話な現実に結びつけてしまう自分に腹が立つ。後ろめたさから指先に触れそうだったバレーボールに触れないまま手を引いた。冷蔵庫を閉める音で慌てて向き直る。必死で表情を取り繕った。
「ごめん、飲み物水しかなかった。これから買ってくる」
「別にいいよ。カップの味噌汁もあるからお湯だけもらえるか」
「それ飲み物じゃないべ」
そう言いながらもお湯を沸かす支度をして再び冷蔵庫を開け、首だけで振り返った。
「大地、飲む?」
弁当を袋から出していた手を止め見ると、ビール缶が二本。スガが飲みたいんだろう。俺が断ったらスガもやめてしまいそうだったから頷いた。年末に二十歳になってから何度か飲んでいるが、まだビールの美味さはいまいちわからなかったけれど。
テーブルの上に弁当とビールと豚汁を並べると、スガが手を合わせる。それから箸を片手に持ったままビール缶のプルタブを開けて口をつけた。合わせて俺もプルタブを引く。軽く一口飲んでもやっぱり美味さはわからなかった。「そのうちわかる」とよく言われるが、好んで飲んでいるはずのスガも美味そうには見えなかった。
酒で喉を潤したスガは弁当の唐揚げを壁で口に運んでいく。注文してから、病み上がりならもっと軽く食べられるものが良かったかと考え直したりもしたけど。
「……大丈夫そうだな」
「何が?」
「風邪。それだけ食えるなら充分だ」
「だからホントに治ったんだってば。今日もバイトだったし。旭も蒸し返すなよな」
「言い出したのは旭じゃなくて俺だよ。メールの返事が来ないって話の流れでさ」
「あー……ごめん。ちょっと、色々あって」
箸が止まって缶に手が伸びた。水か何かみたいに、自分を落ち着かせるように液体を飲む。
「いや、俺が勝手に心配しただけだから気にするなよ」
「どっちみち心配かけたってことだろ?」
本気で反省しているようで、俯く頭に手を乗せた。後輩にするみたいに髪をかき回してやる。スガはされるがままになっていた。心配させたことをスガは気にするけど、そうやって大人しくされると余計に本調子じゃないのが伝わって不安になる。長いこと頭を触って、なんとなく、乱した髪を指で梳いてから手を離した。入れ違いにスガが自分の襟足に手を当てる。
それから食べ終わるまで無言になってしまった。食べるのに集中して残ったビールを食後に流しこんだ。時計を見ると終電は終わっていて、旭から着信とメールが入っていた。スガの安否を確認して一緒に夕飯を食べた旨をメールして返信を待たずに携帯を上着のポケットにしまい直した。
腹が膨れると少し気分がマシになる。ずっとどうすべきか迷っていたけど、腹を決めた。食事の後片付けを終えてベッドを背もたれに一息ついたタイミングで真正面から訊くことにした。
「あのさ、さっき、ここに弁当持って来る前に、スガが誰かと部屋の前で話してるの、聞いた」
並んでベッドに体重を預けてぼんやりしていたスガがあからさまに体をこわばらせた。言葉を選ぼうとしたけど、どう言っても結局は同じ事だと思い直す。
「盗み聞きになって悪い。とやかく言おうと思ってるわけじゃないんだ」
「…………」
「ただ、気になっているものを聞かなかったフリで黙っているのも居心地悪くてな。訊いてもいいか?」
「…………いいよ」
少し声が震えていた気がした。それでも構わず続けた。
「さっきのヤツがここで一緒に住んでたんだな?」
「うん」
「それで、それは友達とかじゃなく………付き合ってたのか?」
作品名:スズメの足音(後)差分 作家名:3丁目