スズメの足音(後)差分
現在進行形にするか過去形にするか迷って、過去形にした。当たっていると思ったから。スガが細く長く息を吐く。ベッドに寄りかかって天井を仰いで目の上に拳を乗せた。泣いているようにも見えた。
「…………うん。最近、別れ話して、それで、とっちらかってて、メールも返事してなくて、ごめん」
「そうか。話しづらいこと聞いて悪かった」
「いいって。旭は何か言ってなかったか?」
「聞いてないけど何か知ってる様子なのはバレバレだった」
「隠し事できないヤツだなあ」
「旭だからな」
顔から拳を外したスガは再び冷蔵庫から缶ビールを出してきた。男が置いてったものだというので余計に不味くなったが、飲まずに話し続けるのも辛いので受け取った。
「いつから、そういうことになったんだ?」
「付き合ったのは……インハイ見に行くためにバイト始めて、しばらくしてから、かな。バイト先のヒト」
「……………………。夏にはまだ一緒に住んでなかったよな」
「それは、秋ごろだったかな。実家住まいだったんだけど、事情があって、部屋を見つけるまでの間って約束で居候させてたんだけど、今頃までずるずる続いちゃってさ」
そういうのを同棲っていうんじゃないだろうかと思ったが、スガは、今はそう言いたくないのかもしれない。
「荷物、多いんだな」
「片付けられないヒトなんだよな。人からよく物をもらうし、捨てるのが苦手だからって増えてく一方だし。悪い人じゃないんだけど」
別に、別れたならそこでフォローを入れなくたっていいんじゃないか。イラついてビールに口をつける。
「そういう生活が合わなくて……ってうわけじゃないのか」
「別れた原因?」
「…………スマン。聞きすぎた」
「気にしなくていいけどさ。………まあ、ちょっと困ってるけど、これが原因ってわけじゃないよ」
両手の間で缶を転がして首を俯けた。缶の上に空いた真っ暗な穴の奥に何かを見ているみたいだ。
「………………………俺が悪いんだ」
「…………」
とやかく言うつもりはないから口に出さないけど、本当にスガだけが悪いとは思えなかった。恋人だろうがなんだろうが、居候の身でこんな図々しい生活をしていて、スガが寝込んでも助けを求められない。そういうヤツなんだろう?きちんと会ったこともない相手だけど、スガが庇えばイライラした。
黙って話の続きを待ってみたが、それ以上は言わない。スガが喋りたくないラインまできたらしい。でも、黙ってしまったスガが何を考えているか知りたくて仕方がなかった。
酔いで白い首がほんのり赤くなっている。髪の間から覗く耳も。柔らかなカーブを描く頬も。
問いただせない代わりに少しでも何かを感じ取りたくて、じっと見つめていたらいつの間にかかなり近くなっていたスガが顔を上げる。意識しないまま体がゆっくりと傾いて距離が詰まっていて、お互いがその近さに驚いた顔をしたけれど、まだ頭はぼんやりしたままだった。どちらも慌てて飛び退いたりはしない。
そのうち眠るようにゆっくりとスガが目を閉じた。僅かにこちらを見上げたまま。身じろぎしただけで触れそうだと思う。
実際少し身を屈めただけで口が触れ合った。眠気でまぶたが閉じるみたいに、吸い寄せられるように近づいて、多分俺の方から口づけた。冷静になったらバカなことをしたけど、混乱のせいか酒のせいか、元からバカだったのか。一度合わさった唇は簡単には離せなかった。
柔らかさを確かめるように少し角度を変えては押し付ける。スガがくすぐるように、食べるように口を動かした。そのうち服の腹のあたりの布地を引かれて体に手を回した。先に舌を出したのはどちらだったかわからない。誤魔化しもいいわけもできないようなキスになるのに時間はかからなかった。
そこで止めたら良かったのだろうか。もうとっくに引き返せる地点を過ぎていたのだろうか。スガの手が動く。冗談だろうと言って、行き過ぎた悪ふざけを咎めるべきだった。だけど、ふと目を上げれば部屋中に散らばる男の私物が否応なく飛び込んできた。それに気を取られてタイミングを逸してしまう。止めないことをどう思っているのか、スガの行動はどんどんエスカレートしていった。体がその気になるごとに止めさせなければと思う気持ちが小さく溶けていく。
葛藤の中、部屋の何処かで携帯のバイブ音がした。これだけ散らかっていても持ち主にはどこにあるのかはわかるらしい。スガは反射的にローテーブルの脇のあたりを見たが、取りには行かなかった。着信ではなくメールだったようで、すぐに鳴り止んだ。
――――多分、アイツだ。
携帯の姿は見えなかったし、スガは何も言わなかったけれど、相手はあの男だと直感した。こんなときに存在を主張されて腹が立った。そこで胸の奥に疑惑が浮かんできた。散らかった部屋を見るたびに苛立ちとしてゆらゆら芽生え始めていた考え。
スガは、あの男の代わりを求めていたんじゃないか。相手は傷心中の酔っ払いだ。別れた原因は自分だと言いながらも悲しそうな顔をして。別れを切り出したものの未練があってもおかしくない。
気持ちが弱くなるとバカなことを考えるのはよくあることだし、始まりのキスは自分からだった。被害者のつもりはこれっぽっちもない。それでも突如濃くなった見知らぬ男の陰に脳みそがグラグラ煮えて、体の中で暴れだす。頭が熱くなって酔いがグッと回った気がした。
体の奥で噴出したドロドロして、熱くて、底からブクブク湧き上がる何かが、されるがままだった体を勝手に動かし、スガに向かって手を伸ばした。
ずっと大事だったスガを傷つけたいと思ったことは一度もなかった。でも今は優しくできなかった。それが、性欲に目が眩んでいるせいじゃないことを、とっくにわかっていた。気づいてしまったら、一晩だけ慰めて元通りになんてなれない。
すべてが終わって呼吸を落ち着かせている間にきつくしがみついていた腕から力が抜けて、ベッドにパタリと落ちたところで体を離した。スガの荒い呼吸が急速に静かになっている。
「…………スガ?」
目を閉じたまま穏やかに息を吐く頬を触った。反応がない。腕が離れた辺りで眠りに落ちたらしい。いや、失神したのか。
バイトから帰ったところだったとも言っていたし、精神的にも参って、アルコールも入っていたから、疲れて眠ったのと区別がつかなかった。
ティッシュかタオルか、とにかく拭くものを探して部屋を見渡したが、これだけ物がある割に、カーテンレールにハンガーで干してあるタオルしか見当たらない。身を屈めてベッドの下を覗きこんでやっとティッシュボックスを発見した。箱を取ろうとして、その向こうにバレーボールが転がっているのを見つけてしまった。暗いベッドの下に追いやられても白と赤と緑の鮮やかさが胸を刺す。
こんなことになっても、寝顔はバレー部の合宿で疲れ果てて眠っていたあの時とまるで変わらない。何より大事な親友で、副主将として俺を支えていたあの時のままだった。スガが何も変わらないのと同じく、スガへの気持ちも変わっていない。――――ただ、気づくのが遅かっただけ。
作品名:スズメの足音(後)差分 作家名:3丁目