スズメの足音(後)差分
途端にその場に留まるのが耐えられなくなって、最低限の後始末だけしてスガに毛布を。自分は服を着込んで、定位置にあるかごの中から鍵を掘り出し、眠るスガを残したまま部屋を出て施錠し、扉についている郵便受けに放り込んだ。
最低だと思う。二十年生きてきた中で一番。自分がこんなヤツだとは思わなかった。昨日までの自分に話したって信じないだろう。怒りで好きな子を抱くなんて酷い話。
スガを好きだと思えば思うほど自己嫌悪はどこまでも深くなった。光さえ遠い奈落の底に沢山の後悔が渦巻いている。
それでも、恋心を抱えたそのことにだけは、後悔はなかった。
あてもなく歩き出し、最寄り駅と違う方向へ進んでいることに気づいて一度立ち止まった。道を戻る気にはならなかったし、いっそ次の駅の方が近いようだったので、そのまま行くことにした。
ふと思い出して携帯を開き、旭からの未読メールに当たり障りない返事を打った。そろそろ始発が動くかという時間なのにすぐに携帯が鳴った。ポケットに戻しかけていた携帯をメールのつもりで開き直した拍子にボタンを押して、電話に出てしまった。
『――――もしもし、大地?』
目の前に持った端末のスピーカーから旭の声がして、仕方なく耳に当てる。
「………なんだよ」
『なんだ、って……大地がこんな変な時間にメール送ってくるからスガと何かあったのかと思ったんだよ』
「…………………」
どうしてこういうときに勘が鋭いのだろう。旭とも高校一年からの付き合いだ。沈黙を肯定と見なして気遣わしげな態度になる。
『今どこ?大丈夫?』
「…………今、スガの家を出たとこで――――」
咄嗟に場所がわからずに見回して、近くのファミレスの扉に書いてあった地名を言った。ちょうどスガの最寄り駅の隣りの駅名と同じだったので旭にもすぐわかったようだった。
『何でそんなトコいるんだよ』
「なんだっていいだろ」
『…………今から行くからその店入って待ってろよ』
「………………」
『行くからな』
めったに発揮しない強気で言い切って通話が切られた。そんなに心配されるような声音だったのだろうか。自覚がなかった。
それでも曖昧にしか場所のわからない駅に向かうのも億劫になってきて、言われたとおり店に入る。
二十四時間営業のファミレスといえども始発が動き出す時間とあって開店休業同然だった。禁煙席を指定して通されたのは禁煙席と薄い仕切り一つ挟んだ席だったが、数十分後に喫煙席に人が入ったあとには店員が一人でも目を配りやすいのだと納得した。
何も食べる気がしなかったので飲み物だけでテーブルに突っ伏した。もう一組っきりの喫煙席の客は二人きりで幾つか料理をオーダーしていて、俺が入店してから一人しか見かけない店員が何度も隣の通路を行ったり来たりしている。
そういえば、スガも飲食店でバイトしていた。居酒屋だが、接客担当だから、そのうち旭と内緒で行って驚かせようと話していたこともあった。スガも客として三人でバイト先の店に行くのはなにかと理由をつけてスガが断っていた。その理由を知った今となっては計画がまとまって店に行かなくてよかったとも思う。その男に笑顔で料理を運ばれるのも、作った料理を食べるのもまっぴらゴメンだ。
この一年のことを思い起こせばスガの行動のあちこちに男の陰があったような気がする。でも、自分の好意に気づかなかったのと同様、スガがまさか男と付き合っているなんて思わなかったし、隠されていた。旭は先に知っていたみたいだったけど、俺には言わないよう口止めされていた。
(何で――――)
相手が男だから、理解されないと思ったのか。女の子が相手だったら打ち明けられたのだろうか。相手が女だったら自分は諦められたのか。
徹夜明けで静かな場所でテーブルに伏せていても色んな声が頭に湧き上がっては出口なく跳ねまわって眠気はさっぱり来なかった。静かすぎるのがいけないのかと思えば、喫煙席の女が上げた甲高い声が耳障りでイライラした。朝っぱらからどうしてそうテンションが高いんだ。
一度耳に入り始めると、意思とは関係なしに隣の会話を拾ってしまう。受験勉強していた頃に「勉強にBGMは欠かせないが、知っている言語で歌の入っているやつはダメだ」という友人がいた。脳が勝手に言葉を追ってしまうからだそうだ。
「――――ほんとサイテーですね」
「はいはい、大抵のことは俺が悪いよ」
「さっさと部屋決めちゃえば良かったのに」
「ミナコさん、引っ越しってそんな簡単じゃないの知ってた?」
「別に下宿代払ってたんじゃないんでしょ?ちょっと節制したら敷金ぐらいすぐ貯まると思うけど?」
「そこは否定しないけど、それだけみたいに言うのやめてよ。好きな子と同棲ってロマンじゃないの」
「好きな子、ねえ。その好きな子を放っておいて浮気三昧で何言ってるんですか」
「だからこそ帰る家はひとつってヤツじゃない?」
「ホンット、クズ。みんなこんなのに引っかかっちゃって、よく今までモメなかったわ」
「まあまあ、ミナコさんだってサイテーだクズだって言いながらも面倒見てくれてるわけでしょ」
「店長にもササヤマくんが店にいる限りは世話焼いてやってって頼まれてるんでね」
「店長に愛されてもなあ」
「店長のタイプ、使い勝手が良くて外面良くて仕事がそれなりにできる人だからね」
「知ってる」
男の控えめな笑い声に被って女がこれみよがしなため息を吐いた。
「ホンット、ヒドい人。スガワラくんが可哀想!」
突然飛び込んできた名前に反射的に顔を上げた。仕切りがあって向こうの顔は見えないとわかりながら振り向く。
「何でミナコさん、今回に限ってそんな同情的なの?コウシと何かあった?」
「アンタじゃないんだからバカ言わないで下さいよ。男の子が気になってるって言われたときはびっくりしたけど、会ってみて納得しちゃうぐらいスガワラくんイイ子だったんだから、そりゃ味方にもなりますよ」
聞き間違いではなかった。他に店内に客はなくて、BGMも音量が絞られている。それに、今その名前を聞き間違えたりするはずがなかった。
声は覚えていないし、姿も夜道を歩く後ろ姿しか記憶に無い。それでも仕切り壁の向こうにいるのは間違いなくアイツだった。
真っ暗な穴に埋まり込んでいた頭が急に覚醒して火が放たれたように熱くなった。丁寧に考える前に体が動いて、仕切りを回りこんで早足で喫煙席に踏み込んだ。独特の甘いタバコのにおい。ちょうどこちらから顔の見える席にいた女の方が気づいて怪訝そうな顔をしたが、構わず距離を詰めて男の顔を見た。知らない顔だった。それでも服は昨晩と同じように思えた。
「…………何スか?」
突然現れて無遠慮に顔を見る俺を見上げて声をとがらせる。その胸ぐらを掴みあげると女が悲鳴を上げた。殴りたい衝動はあったけれど殴る資格はなかった。水の一杯もぶっかけてやりたかったが、生憎とグラスはテーブルの奥側にあって手が届かない。大きな声を出す代わりに腹の底から低い声で言い放った。
「金輪際、スガの前に現れるなっ」
突き飛ばす勢いで放した。
「ぐっ…………ケホッ……、誰だよお前!スガ?…………もしかして、孝支の友達か」
「……………」
作品名:スズメの足音(後)差分 作家名:3丁目