弓道はるちゃんとその彼氏
県の総合体育館の弓道場は、矢を射る者が弓を引く場所である射場、安土と呼ばれる土盛りの上に的が串で刺し立てられた的場、射場と的場のあいだの矢の通る場所である矢道には芝生が広がり、その両脇には背の低い木が植えられていて、その垣根の芝生とは反対側が観覧場所となっている。
その観覧場所で岩鳶高校水泳部のメンバーと会った。
もちろん彼らは遙の応援に来たのだった。
そして、江も来ていた。
すぐに御子柴が江に接近したが、凛がそれをさえぎった。
岩鳶高校水泳部の部員である遙が試合に出場するなら、マネージャーの江が応援に駆けつける可能性は高い。
それを御子柴は読んでいたのかもしれない。
だが、今日ここに来たのは、それだけが目的ではなかっただろう。
試合が始まると、御子柴は真剣な眼差しを射場に向けた。
それは、凛はもちろん、他の水泳部員たちも同じである。
自分たちは弓道の試合について、ほとんど知らない。
しかし、試合を見ているうちにそのシステムがわかってくる。
試合はトーナメント制だ。
一チームは五人で、射場には対戦する高校が一チームずつ計十人が並ぶ。
一人、四射。だから、五人で二十射だ。
五人同時に射るのではなく、順々に矢を放っていく。
呼び方は色々あるようだが、この場にいる弓道経験者たちが話しているのを耳にしたところ、一番手は大前(おおまえ)、二番手は二的(にてき)、三番手は中(なか)、四番手は落ち前(おちまえ)、最後は落ち(おち)と呼ばれている。
そして、まえの者がすべて終わってから次の者が動き始めるのではなく、まえの者がこの動作をしたときに次の者がこの動作を始める、という流れがあるらしい。
試合は意外なほど早く終わっていく。
五人対五人の対戦が終わるまえに、次の二チームが入ってきて、対戦している者たちの後方、少し離れたところに置かれたイスに座る。
四射すべて引き終わった者は同じチームの者たちが終わるのを待たずに静かに退場していく。
十人全員が退場すると、的場に係りの者たちが的の数だけやってきて、放たれた矢を回収する。
次の対戦が始まるまえに、場内アナウンスがあり、「〜高校〜中(ちゅう)」と、さっきの対戦でそれぞれの高校が矢を、合計何本、的に中(あ)てたのかを報告し、どちらの高校が勝ったのかを知らせる。
アーチェリーと違い、的の中心に近いほど得点が高くなるということはない。矢が何本、的にあたったか、である。
わかりやすいシステムだ。
やがて、岩鳶高校のチームと、その対戦校のチームが、静かに入場してきた。
先頭を歩いているのは、遙だ。
凛たちのいる方向、的の右手方向、脇正面のほうを向いて歩いている。
「……七瀬さん、大前なんですね」
隣で似鳥が言った。
凛も驚いていた。
試合のシステムはわかったが、弓道には詳しくない。
それでも、これまで試合を見ていて、大前と落ちをつとめる者の的中率の高さに気づいていた。
たぶん、大前は一番手でも動じずに中(あ)ててチームの意気をあげることができる者、落ちは自分よりまえの者たちが外しても心を乱さず落ち着いて中(あ)てることのできる者が、配されているのだろう。
「会場に入るまえに、他校のひとにあんなこと言ったし、すごいプレッシャーなんじゃ……」
弱いかどうかは今日の結果が出てから言え、と言ったことだろう。
これで一番手の遙が外して総崩れになったら、遙は敗戦の原因となるだけでなく自分の言ったことが自分に返ってくることになる。
「そうだな」
御子柴が似鳥に同意した。
それから続ける。
「だが、俺なら、そのプレッシャーをはねのけられない者をあの位置には置かない」
席についた遙に向けた眼差しは鋭い。部長の眼だ。
凛は黙っていた。
じっと遙を見る。
遙を信じている。
遙は他人とあまり関わろうとしないが、まわりのことをよく見ている。
期待されることを好まず、そういう状況になることを避けているところもあるが、いざというときは、きっちりと期待に応える。
だから、きっと。
でも、万が一、期待に応えられず悪い結果になったとしても。
オレはおまえの味方だ、ハル。
そう強く思いながら、凛は遙を見る。
しばらくして、岩鳶高校のまえの対戦が終了した。
イスに座って待っていた岩鳶高校とその対戦相手の高校の生徒たちが、板張りの射場を進み、まえへ出た。
射位に遙は立つ。
袖のない筒袖の白い上衣に黒い胸当て、黒い袴、白い足袋。その和装は遙に似合っている。
手に持っている弓は大きい。試合で使われる和弓の全長は七尺三寸、約二百二十一センチメートル。ただし、これは直線距離ではなく弓の曲線に沿った長さだ。しかし、直線距離で見ても、大きい。
四本の矢のうち二本は足元に置き、二本の矢を右手に持っている。
弓をひくことになる右手には弓懸(ゆがけ)と呼ばれる手袋をはめている。
右手に矢を、左手には弓を、それぞれを持った手は腰の高さにある。
遙は脇正面に身体を向け、顔は的へと向け、足をそろえて立っていたのが、左足をすっと的のほうへと出した。
続いて、右足を逆方向へと進める。
足が外八の字を描いた状態で立つ。
足の裏が床をすべっていったように見えた、流れるような、それでいて力強い動き。
足踏みと呼ばれる動作である。
このとき、足踏みが広すぎると、身体の構えが左右には強くなるが前後には弱くなる。
逆に、足踏みが狭すぎると、身体の構えが前後には強くなるが左右には弱くなる。
それから、弓と矢を身体の正面に位置するように左手で持ち、右手は右腰のあたりにやる。
腰をすえ、肩を沈め、背筋からうなじを真っ直ぐに伸ばして立つ。
胴造り、だ。
射位にいる十人全員が、脇正面を向いて、左手で弓と一緒に持っていた二本の矢のうち、一本はそのままに、もう一本は右手に持って右腰のあたりに置いて立っている。
そして、十人の中で、遙と、脇正面を向いた遙の背後、岩鳶高校弓道部四人の向こうにいる、対戦相手の大前の、ふたりだけが次の動作に入る。
弓構え。
遙は的場のほうに顔を向けた。
鋭い視線が走る。
それから顔を脇正面へもどし、身体の正面に位置している弓を見た。
今ではなく次に放つ矢を持ったまま弓懸をはめた右手の親指を弦にかける。
弓を持った左手、手の内を整え、弓を少し押し開く。
ふたたび、的場のほうに顔を向ける。
的を見る。
そして、弓矢を持った手を自分の頭よりも高い位置へとあげる。
打起しと呼ばれる動作だ。
大前の遙がその動作に入ると、遙の背後にいる二番手である二的が弓構えの動作に入った。
遙は高くあげた弓を押し弦を引き、左右の拳を高低なく水平を保ちつつ開いていきながら、弓矢を身体と平行に下げていく。
引分け、である。
大きく開かれた弓、そのあいだに水平に走っている矢、矢の高さは遙の目線の高さより下、口のあたりまで、下げられた。
引分けが完成されて、会、の状態となったようだ。
これまでの動きを、遙は対戦相手の大前よりも早く行っている。
一切迷いがない様子で、表情を揺らすことなく進めている。
緊張感の漂う中、遙のまわりの空気は清く澄んで静かだ。
その立っている姿は美しい。
そして。
矢が放たれた。
離れ。
遙の手から離れた弓は、勢いよく矢道を飛んでいく。
作品名:弓道はるちゃんとその彼氏 作家名:hujio