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改・スタイルズ荘の怪事件

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「ヘイスティングズさんの食べて欲しいのは、下の方の皿にあるやつなんだ。見れば分かるから先に言ってしまうが、ツァトゥグアのステーキだよ。言うまでもなく冷凍物だがね。」
わたしは一瞬だが返事につまった。それを見て、イングルソープ夫人は悪戯が成功した子供のように喜んでいる。
「もはや地球上には存在しないのかと思っていました。」
「オレの昔の知人がね。大陸で養殖をやっているんだ。まだ量が取れないんで身内で回すだけなんだが、昔取った杵柄というやつさ。」
「密輸ですか。」
「率直な人間は嫌いじゃない。大陸鉄道を使って運んでいるさ。オレはあそこの筆頭株主だからね。多少の無理は通るんだよ。」
わたしは絶句した。確かに軍部の流通の全てを支配していた夫人の経歴を考えれば、関連企業の株式の一つや二つ簡単に手に入れることが出来ても不思議ではない。しかし、世界唯一の鉄道会社の筆頭株主となれば、もはや想像の域を超えている。
わたし呆然として間も、アニーは上の皿から料理を皆に配膳していた。大陸から断絶した彼らにとって、夫人の言葉はちょっとした自慢話に過ぎないのだろう。気を取り直すために、配られていく皿を眺めていると、そこに載せられているのは普通の牛のステーキのようだった。
「わたし達しか食べないんですか?」
「食べてみれば分かるよ。」
アニーは皆の配膳を終えると、こちらの方に取りかかった。わたしは目の前に置かれた有機体を眺めながら、三度ほど唾を飲み込んだ。もしここに最後の晩餐派【イスカリオテ】が居れば、七生を賭けてでも食べたいと願うような珍味が目の前にあるのだ。わたしはゆっくりとソレを口の中に入れた。
衝撃がきた。舌の上に乗せると、すぐに表面に展開されていた仮想質量がほどけ、幾重にも圧縮された高密度の概念体が口の中に途切れることなく転送されてくる。死すらも甘く感じる絶望と、それを上回る際限のない恍惚。自己同一性が芯から喰らい尽くされながら再生されてゆく。戦場においては七百の火器の操作を並行で処理出来る内部回路が限界を超えかけ、わたしは惜しみながらも感覚の一部を閉鎖した。
「美味しいだろう?」
夫人は頬こそ紅潮しているものの、これほどのものを食べた様にはとても思えない平然とした口調である。ポアロは彼女をただの人と称したが、それは大きな間違えだったようだ。
「美味しいんでしょうか?」
抑制の無い大きな笑い声が食堂に響く。やはり夫人も、何の影響も受けていないわけではないのだ。
「それは食べた君が決めることさ。少なくとも、岩を食べるよりは素敵な経験だと思うがね。」
「確かに、皆さんに食べさせない理由は確かに分かったと思いますが。」
何の処置も施していない人間が食べれば、あまりの情報負荷に死んでしまうはずだ。もちろん、世の中にはそれを至福とする人間も存在するだろうが、わたしは違う。
「お気に召さなかったなら、アニー共々、謝罪させてもらうよ。」
「それには及びません。お恥ずかしい話、まだ上手く経験を処理しきれていないんです。大陸でビヤーキーを食べたことはあるんですが、こんなものではなかったもので。」
夫人は得心したように頷いて、アニーの方を見ながら意地の悪い表情を浮かべた。
「もちろん、ビヤーキーとツァトゥグアでは格が違うが、それよりアニーのお陰だろうね。信じないかもしれないが、こういう食材は料理人を選ぶんだよ。」
「これほどの食材ですから、料理する人間の腕も求められるとは思いますが、わたしが食べたのだって安いレストランではありませんでしたよ。」
「むしろ、君の食べた店のコックの方が、アニーよりは腕は上だろう。彼女は正規のコースを経た料理人ではないし、二万種の味を二十段階に分けて感じられるほどの才があるわけでもない。」
そう言われるとアニーは少しだけ顔を赤らめた。自分の経歴を弁明するように彼女は話し始めた。
「こういう食材を調理する上で、一番大切なのは「目」なんです。」
彼女のオッドアイが慎ましげに光を放った。
「いったい何を見るんです?」
「むしろ、見ないことが大切だと言えるかもしれません。わたしが見ているのはツァトゥグアであってツァトゥグアではないんです。」
禅問答のような会話だ。わたしの内心を汲み取ったのか、ジョンが助け舟を出してくれた。
「優れた芸術家は材料を見たとき既に完成形が見えている。アニーが言っているのは、そういうことですよ。」
息子の介入に夫人はめんどくさそうに右手を振った。
「へぇ、そうなんだ。食べたオレにも分からないようなことが、食べてないお前によく分かるものだね。」
「ですが、アニーが言ってるのは、そういうこととしか考えられないでしょう。」
ジョンが同意を求めると、アニーも小さく頷く。それを見て、夫人は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「孤立無援というやつだ。」
すかさずアルフレッドが口を挟んだ。アニーはこの隙にささと調理場に下がって行ってしまう。
「アニーが言っているのは、オーラのようなもののことですか。心眼というような。」
「アルフ、君は全くお馬鹿さんだな。」
心底からの哀れみを込めて夫人は言ったが、それすらも夫の方からすれば嬉しいらしい。彼の顔には満面の笑みが浮かんでいる。
「お母様、それではご自分で説明して下さればいいじゃありませんか。」
食事の間ずっと静かだったメアリが義母に向けて言った。わたしも含めて、食堂の人間は全員その意見の賛成のようだ。大勢を感じとったのか、夫人はしぶしぶという感じで口を開いた。
「ぼくが言ってるのは、トマトやレタスと同じように、牛を料理することは出来ないということだよ。むしろ、牛というよりは岩だろうがね。」
「知識の問題ですか?」
わたしの質問に夫人は鋭く首を横に振った。
「オレにとっては、そうとも言える。だが、アニーとっては認識の問題の方が近いだろうね。」
「それじゃあ、母さん。アニーの認識で料理の味が変わるって言うんですか。そんな、非科学的なことありえませんよ。」
ジョンの意見にわたしも賛成だった。夫人の意見を丸ごと飲み込むなら、ツァトゥグアとは食べ物ではないことになってしまう。食べ物で無かったら、何だと言うのだろう。神だとでも言うのだろうか。
「それならそれでいいさ。ミスター・ヘイスティングズはここで得難い経験をしたと言って下さった。オレはそれで満足だよ。」
夫人が議論を強引に打ち切ってしまうと、それ以上は誰も会話を続けようとはしなかった。老いた支配者がだんまりを決め込めば、周りはそれに従うしかないのである。
間延びした沈黙の中、アニーがデザートを運んできた。木苺のアイスクリームはいたって普通の味がしたのだった。