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改・スタイルズ荘の怪事件

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1,0章


わたしはロンドンのホーム内で、列車が到着する様を注意深く眺めていた。軍人という職業柄、周囲への警戒を緩めることが出来ない性分なのだ。軍人とは言っても、正確には統合政府から平和維持軍へ出向という扱いなっているので軍属ではない。これは全体の三割以上を機械に置換した兵士のお決まりのコースだった。
はるか戦前の名残で、平和維持軍は高度に機械化した兵士を保有できない規則なっているのだ。その規則定めた集団自体が存在しない今、何の意味も持たない規則だが、UNの後釜を主張する統合政府にとっては好き勝手に変更の出来ない決まりでもあった。
正統性。もはや地球上にほぼ物理的な障害を持たない統合政府を束縛する幾らかの概念の一つ。
列車が完全に停車したとき、百八十センチ強のわたしの体躯はカーキ色の軍服に包みこまれ、条件付けされたリラックス状態にあった。強化された身体は人の限界を軽々と超えることが出来る。それは一歩間違えれば、自分自身が護衛対象を傷つける凶器となることをも意味していた。少しの動揺が文字通り命取りになりうるだ。
わたしは周囲をさりげなく見渡した。ホームにはさほど人はいない。合計で三十一人。官僚の現地での愛人とわたしの同業者が三人ずつ。残りは月に三回あるかないかという大陸からの列車の客を目当てに如才なく目を光らせる英国人だった。
「ヘイスティングズ、ロンドンの駅には乗客目当ての物乞いがいるから注意しろ。」
そう同僚に注意されたとき、わたしの赤毛の頭の中にあったのは、物語の中にだけ存在する貧しい身なりをした百姓だった。だから、ロンドンに降り立ったとき、そこにいたのが紳士然とした男たちだったときは驚きもした。
後で知ったことだが、ロンドン駅の中に入るには一定のドレスコードが要求される。その条件を満たせるのは、英国でも一握りの富裕層のみだ。そして、彼らは大陸の観光客の案内を主な仕事にしているのだから、大陸と英国の関係が露骨に示される事例である。
わたしが大陸間格差について物思いに耽っていると、二両目のドアから次々と人が溢れ始めた。最初に降りてきたのは、蜘蛛のように八本の足と二つの胴体を生やした生体アンドロイドたちで、合計で十二本になる手足を器用に使って次々とコンテナを運び出していく。コンテナに示された統合政府のエンブレムから察するに、彼女たちが運んでいるのは行政府へと搬入される製品のようだ。民間人のイギリスへの生体アンドロイドの持ち込みは禁止されているから、彼女たち自身も商品ということなのだろう。
コンテナの運び出しが終わると、次に百人を超える侍女と思しき変体人間が、その増設された触手やヒレを使って家具やトランクケースなどを運び出していく。
変体人間たちの列が途切れると列車の屋根が静かに開き、小型の機竜や天使を筆頭とする護衛と思しき奇妙な生物たちが飛び出してきた。そして最後に現れたのは、四体の機械兵に運ばれた直径五メートルを超える球状の水槽だった。
水槽は光学迷彩に覆われ、中を覗きみることは出来ないが、わたしはその中にイるものを知っていた。統合政府の達成した医療技術の粋と有り余る富がこの世に生存させた異形。世界第八位の大富豪。第二次巡礼始祖【セカンド・ピルグリムファーザーズ】、九つ児【ナイン】と呼称される九連のシャム多生児だ。
わたしが何か圧力のようなものを感じて目をそらしていると、水槽はその重量を思わせない滑らかさでホームの外に用意されていた専用車の中に消えていった。
彼らの全てがホームを出るまで他の列車のドアは開かない。規格外の大きさである二両目の神殿列車は別にしても、平均すれば一車両に百五十人には乗車しているのが常である。小さなホームに混乱をもたらさないため、よほどの例外を別にすれば、一車両ごとの開閉が暗黙のルールとなっているのだ。例えば、一車両に一人しか乗っていないというような例外をのぞいて。
次の瞬間、悲鳴がホームに響いた。一つ目が起きれば、後は連鎖的だった。あたかも、わたしのうめき声に触発されるかのように、パニックが次々に発生していく。
わたしは力なく笑うしかなかった。ホームは既に混沌の渦の中に叩き込まれていた。パニックに陥った駅員は全車両の緊急脱出レバーを引き、それが更なる惨事を呼び寄せている。
前もって閲覧した情報を見る限りでは、わたしの護衛対象がホームの阿鼻叫喚の原因になる可能性は予想できた。にも関わらず、それを抑止できなかったのはわたしの任務の性質と、軍人にあるまじき希望的観測による。
”全ては秘密裏に執行されなければならない。その上で、アルゴノイタイに出来る限り配慮しろ”
それがわたしに下された命令であった。統合政府の最高諮問委員である英雄【アルゴノイタイ】は、一般には表に出てこない存在である。その上「ヘラクレス」はとある理由から、英雄であると認識されにくい特徴をもっている。ならば、多少の危険を看過してでも、英雄の来英そのものを秘匿した方が任務に適う。それがわたしは判断だった。しかし、その思惑は見事に外れてしまったようだ。
阿鼻叫喚の中心、逃げ惑う人々の中を我関せずという態度で歩いて来たのは、タキシードを華麗に着こなした一人の少女だった。
艶やかな黒髪を尼そぎにし、人形めいた顔立ちの中に置かれた黒い瞳は、混沌の渦中にある周囲への軽蔑を含んだ興味で彩られている。右手には黒檀でしつらえた杖、頭に頭のサイズより少し小さめのシルクハット。絵に描いたような男装の麗人である。
周囲数メートルから人が完璧に遠ざかったことを確認すると、彼女は慇懃無礼なほど優雅に、そのシルクハットを脱いでみせた。
「エルキュール・ポアロだ。よろしく頼むよ。」
わたしは迷うことなく正式の敬礼で、その挨拶に応えた。
「アーサー・ヘイスティングズ大尉です。お車は手配してあります。どうぞ、こちらにミス・ポアロ。」
「ミスは必要ないよ。アルゴノイタイに性別はないんだ。格式ばった儀礼は止めようじゃないか。君が君の役目を果たしてくれれば、私はそれ以上の要求はしない。覚えておきた──まえ。」
ポアロが全てを言い終わる前に、その顔を目掛けて飛んで来たのは、表面が鏡のように磨かれた黒の革靴だった。その皮靴は目標に届くことなく、わたしに手刀で両断された。しかし、その一投が恐怖へのはけ口を与えたのか、次々と色々なものが飛来してきた。
酒瓶。雑誌。万年筆。火の灯されたライター。銃弾の類がなかったのは、ロンドン駅への持込が禁止されているからに過ぎない。わたしはポアロを庇う様にしながら足早に車へと先導していく。
「初日から嫌われたものだね。」
次々と叩き落されていく品々を見ながら、ポアロは手に持った杖を地面に何度も叩きつけている。手持ちの情報によれば、これは彼女が喜んでいる印だ。彼らの悪意など英雄にとってはそよ風のようなものかもしれないが、護衛としては気が気でない。急いで改札を抜け、手配してあった車に乗り込むまで約九十二秒、その間に四十三個の品々がこちらに投げられた計算になる。