敵中横断二九六千光年1 セントエルモの灯
佐渡先生
目が覚めたとき、感じたのは匂いだった。石鹸や芳香剤の香りに似てるがどこか違う。目を開けると見覚えのない天井があった。古代はベッドに寝かされていた。まわりを白いカーテンが取り囲んでいる。
病院みたいだな、と思ってから、まさに病室なのだと気づいた。手を伸ばして横のカーテンをめくってみる。
やはり船の医務室だ。匂いは薬の混じったものだ。それに酒。白い軍医服の男が、椅子の上に胡座(あぐら)をかいて座っていて、一升瓶からコップに酒を手酌にして飲んでいる。見事にツルツルのハゲ頭だ。
古代を見て言った。「おう、気づいたか」
気がついてないかもしれないな。おれ、夢を見てるんちゃうか。「あの……」
「どれ、ちょいと診ちゃろうか」
立ち上がったが、ひどい短足、そしてガニ股の小男だ。座ってるときとあまり背が変わらない。古代の方にユラユラと酔った足取りでやって来る。
「わしゃあこの船の医者で、佐渡酒造ちゅうもんじゃ。専門は動物じゃがな。だが安心せい。人間も豚も似たようなもんじゃ。人も診れるし酒も飲める」
コップの酒を飲み干した。まだ片手に一升瓶をブラ下げている。
歳は五十かそこらだろうか。どう見てもただの酔っぱらいのおっさんだ。
「ええと、なんじゃったかな。そうそう。お前、なんでかつぎ込まれたんじゃっけ」
「さあ。おれに聞かれても……」
「だらしのないやっちゃのう」
古代の頭をつかまえて目玉を覗き込んできた。酒臭い息がかかる。
「ふうん、まあ、大丈夫じゃろ。ちょっと一杯飲んでいけ。わしゃ退屈しとったんじゃ」
「は?」
聞いたが、佐渡という医師は問いに応えず千鳥足で去っていった。コップを手に戻ってくる。
「まったく、こんだけデカい船に、看護士ときたら男ばかりだ。ひとりくらい酌してくれる美人看護婦付けてくれていいじゃろとは思わんか?」
「ええと……」
と言った。宇宙軍艦の救命士や看護士なんて、腕の太い男でなければ勤まらないに決まってはいる。
「ほれ」
と言って、空(から)のコップを渡された。酒が注がれそうになる。
「まあ飲め。米から造った酒じゃ。味は悪くもないぞ」
「は? いやあの、酒はちょっと……」
「なんじゃと? お前、わしの酒が飲めんちゅうのか」
「いえその、おれ、パイロットなんで……」
「医者のわしがええちゅうとるんじゃからええんじゃ。男が飲めと言われた酒を飲めんでどうする」
「はあ」と言った。「米の酒ですって?」
「そうじゃ。今日日(きょうび)は貴重品じゃぞ」
そりゃそうだろうが、なんでそんなものが宇宙軍艦の医務室にあるのだ。
見たところ、一升瓶にはラベルもない。密造酒か何かだろう。が、今の地球で米やブドウから酒を造ること自体――。
いま現在、地下都市では多くの人が酒や麻薬に溺れていると聞いている。軍の内部にもはびこっているが、こうも開けっぴろげなおっさんは見たことがなかった。しかも飲むのが、米の酒?
今の地球の地下で穫れる作物のうち、放射能汚染度の高いものは燃料用のエタノールに変えられる。木星の衛星や火星の基地で〈酒〉と呼ばれて飲まれているのは、その純度百パーセントの〈火の水〉をサイダーなどで割ったものだ。古代は何度か試してみたが、うまいと感じたことはなく、耽溺する者の気持ちはわからなかった。年代物のウイスキーなどは貴重中の貴重品だし、地下農場は収穫量が第一で作物の味が問われることはない。まして米など完全に食用。酒造りにまわすなんて話は聞いたことがない。
第一、今のこの船だって、〈米〉と称して食われているのは成形されたでんぷんじゃないか。
なのになんでそんなものが? しかしなんともいい匂いが鼻をくすぐる。これが本当の酒の香りか……。
米の酒ってどんな味がするんだ、と思った。酔い心地が違うなんてことがあったりするもんなのか。
まさか、という気はしたが、その香りに妙に魅せられるものも感じた。古代はコップを差し出して言った。
「じゃあちょっとだけ」
作品名:敵中横断二九六千光年1 セントエルモの灯 作家名:島田信之