敵中横断二九六千光年1 セントエルモの灯
ワープテスト
「ようやく準備が整った。これよりワープテストを行う」
沖田が言った。第一艦橋のクルーは全員席に着いている。
超光速航法〈ワープ〉。往復二十九万六千光年の宇宙航海を成し遂げる最も重要な要素であり、マゼランまで行けるも行けぬもこのテストがうまくいくかにかかっている。ゆえに準備は万全を期さねばならなかった。船が傾いて地上にあり、しかし外から目で見てチェックすることさえできないでいた各部がちゃんと間違いなく造られており、真空の無重力下で正常に機能するかを見定めなければ、ワープテストなど行えるものではない。なのに、火星の陰で予定していた多くのテストができなくなってしまったために、すでに大きな遅れを出してしまったのである。
今から行うテストのすべてに、旅の成否がかかっている。クルーの誰もがそれを理解し、固唾(かたず)を飲む思いでいるはずだった。島は操縦席に座り、百人一首の読み札を一枚一枚めくっていた。探していた一首を見つける。天智天皇の『秋の田の』だ。
ブリーフィングで真田に言われた。ワープにおいては、タイミングが鍵となる。時間の波と空間のひずみ。五線譜に音符を刻み込むようにそれが重なるポイントを見つける。その瞬間に正確にタイミングを合わせてワープのスイッチを入れるのだ。もしそれに失敗すれば、この時空を引き裂くか、この〈ヤマト〉が超空間に呑み込まれ永遠に出て来れぬことになるだろう――。
タイミングが重要だ。同じことは、戦闘機乗りの訓練を受けていた頃も教官に言われた。訓練生をひとまとめにしてかるた取りをやらされたときだ。
かるた取り? なぜそんなことを、と訝しむ自分達に教官は言った。遊びではない。早く取れ。早く、速くだ。百枚の札を覚え込め。たとえば二首の歌がある。『秋の田の』と『秋風に』。詠み手の声が〈あきのた〉ならばこちらの札を、〈あきかぜ〉ならばこちらを取るのだ。だがそこまで詠まれてから手を出しているようでは遅い。
こう言われた時点でかなりクラクラときた。なのに教官はその先を言った。『秋の田』ならば〈あき・の〉の時点、『秋風』ならば〈あき・か〉の時点で札に手が伸びねばならない。だがそれですら遅いのだ。〈あき〉と詠まれた時点で札に手を伸ばし、次が〈の〉なのか〈か〉なのかを聞いて押さえろ。しかしそれですらまだ遅い。
こう言われてもはやアングリ口を開けるしかない自分達に教官は言った。『聞いてから押さえる』のでなく、『聞くと同時に押さえる』のだ。それをやるには、〈あき〉と詠まれた時点で次が〈の〉なのか〈か〉なのかがわかっていなければならない。そこまで速く体が動くようになれ。これはそのための訓練だ。
冗談だろう、と誰もが思った。そんなことできるわけがない。だが、ひとり、やってのけた者がいた。古代だ。あいつは、誰よりも速く手を伸ばし、〈あきの〉と〈あきか〉を聞き分けて三字目が詠まれると同時に確かにそれを押さえた。あいつにどうしてそんなことができるのか、誰にも理由はわからなかった。
あの古代が、まだかるたをやっていた……けれども、こんな話は森にはとても言えないな、と島は思った。特攻パイロットの中から、死なすに惜しい者を抜く。それがかるた取りなどで判じられ、さして意味なくいいかげんに決められてしまうなんていうのは、今の森は受け入れまい。聞いても言うに決まっている、『そんなことができるならできるで、じゃあどうして戦わなかった』と。
森だけでない。他の誰にも。こんなことを話すには、艦内の空気が今は悪過ぎる。誰もが古代を疫病神と見ているのだ。おれの胸にしばらくはしまっておくしかないだろう。加藤も誰にも言わないだろう。
あの二尉にも、まるで勝てなかったがな――また思った。古代と加藤。果たしてどちらが速いだろう。やはり古代と同様に、まるで次に詠まれる音が何かが先にわかるかのように札を取っていたけれど。
まあいいさ。おれに必要なタイミングは、あれで掴み取れたはずだ。ひとつの歌が詠まれるのに十秒だ。上(かみ)の句五秒。下の句四秒。間合いが一秒。
ワープの準備が進められていく。波動エンジンが唸りを上げる。森が言った。「ワープまで三十秒」
島の目の前。空間を示すグラフが歪んでいく。時間の波を示すポイントが揺れている。そのタイミングを捕まえた。深呼吸して、目を閉じる。
森が言った。「二十秒」
「誰波津(なにわず)に咲くやこの花冬ごもり――」島は、口の中だけで、唱えるように序歌を詠んだ。「今を春べと咲くやこの花――」
「十秒」
「秋の田の――」
島は詠んだ。百人一首の最初の歌を。九、八、と森が秒を読んでいる。
「かりほの庵(いお)の苫(とま)をあらみ――」
七、六、五……。
「我がころも手は露に濡れつつ――」
三、二、一……。
「ワープ」と言った。レバーを入れる。
〈ヤマト〉は光の速度を超えた。
作品名:敵中横断二九六千光年1 セントエルモの灯 作家名:島田信之