敵中横断二九六千光年1 セントエルモの灯
カルトの子
古代の乗った〈ゼロ〉が青い火を吹いて、タイタンのオレンジの空に舞い上がる。眺めて森は、あたしってイヤな女かもしれないな、と考えた。
あの古代という男、やはりどう見ても頼りない。こうして作戦に連れ出してみて、あらためてがんもどきだと実感する。でもだからって、あんなこと言わなくたっていいだろうに、どうして言わずにいられなかったのだろう。
あの男とわたしは違う。わたしはずっと戦ってきた。人類を救う一心で、子供を救う一心で、だからこうして今の立場も手にしたのだし、それを誇りに思っている。この作戦も計画通りに成功させて、〈ヤマト〉に石を届けねばならない。自分で計画したのだから、その任務の重要さも理解している。
波動砲を直しても、冥王星を撃つ役には立たないだろうと言われている。それもわかっているけれど、しかしそれは問題じゃない。航海の先は長いのだ。マゼランまで何があるかわからない。せっかくの超兵器を使えぬままにしておいていいはずがない。
だからこうして採掘に立ち会うためにやってきた。しかしあの古代というのは、作業の間ただ〈ゼロ〉に慣れるためだけに飛ぶという。
それもまあ、重要と言えば重要なのか。しかし、そんな人間が、なぜ〈ヤマト〉の航空隊を任されたりすると言うのだ。
古代進。三浦半島に遊星が落ちた日、親と住む家を失くした男――島はそうわたしに言った。
この戦争で、そんな人間はいくらでもいる。自分もまた、あの日、親と住む家を別の形で失くしたのだ。
あの男と自分は違う。しかし、どこが違うのだろう。あの親達とわたしは違う。ずっと思ってきた。そのはずだった。しかし、どこが違うのだろう。今の自分は両親と同じことをしてはいないか。
あの日、母は包丁を握り、わたしに飛び掛ってきた。わたしのことを悪魔と呼び、もう自分の娘ではないと叫んで。
君はマジメ過ぎるのがいけない。よく言われてきた。少しは心に余裕を持てと。しかし両親は言ってきた。お前はマジメさがまるで足りない。そんなことでは楽園に行けない。ワタシ達には人々を救う使命があるのだ。もっとその自覚を持てと。
なるほどあの両親は、マジメ過ぎるほどマジメだった。そこを宗教につけ込まれた。『もうすぐ世界は終わる』などという教義で人を惑わして、救われたければカネを貢げと騙(かた)るよくあるカルトの類だ。父母はその信者だった。子のわたしが生まれたときにはすでに、教えに洗脳されていた。わたしはカルトの子供としてこの世に生を受けてしまった。
三歳で伝道に参加させられた。家から家へ訪ね歩いてニコニコ顔で『宗教に関心はありませんか』と声をかけるのだ。それにひたすら付き合わされる。母は仮面を付けていた。ドアがバタンと閉められるたび、ニコニコ顔の下にある本当の顔を自分に見せた。『あれは救われないね』と毒づき、それからキッとこちらを睨みつけてくる。『そんな顔をするんじゃないの。笑いなさい。母さんみたいに笑うの。あんたがニコニコしないから、子供を虐待してるだなんて変な誤解を受けるんじゃないの。心に悪魔が入ってるのね。あんたみたいな悪い子供は懲らしめなければ』。そう言って頬を張られ、つねられ、頭をガンガン殴りつけられ、腕をぞうきん絞りにされる。それから『行くよ』と歩き出し、次の家のドアの前で母はにっこりピカピカとした笑顔をまた作るのだ。
それが日に数十回。毎日毎週毎月毎年、果たして一体何万回繰り返したことだろう。母は確かにマジメだった。カルトの教えを大マジメに信じていて、マジメに伝道に努めていた。十歳を過ぎる頃からわたしが反抗し始めると、『娘に悪魔が取り憑いた』とマジメな顔で言うようになった。
ガミラスの侵略が始まったとき、父母が信じる教団の教祖は叫んだという。あれだ、あれこそがわが協会の創始者が予言したものだ。数百年のときを経てついに現実のものとなった。とうとう神が人類を皆殺しに来てくださったのだ、と。
父母はそれをマジメに捉え、涙を流して『有り難や』と喜んだ。そうだ、まったく、人に言われる通りだった。マジメ過ぎるということは、いいことでは決してない。心に余裕を持たないと、あの両親のようなことに――。
わかっているつもりだが、しかしわかってないのかもしれない。脇目も振らずにやってきたから今の自分があるのだが、どこかで親と同じことをやっているのではないか。
父と母はマジメだった。あれで本気で、自分達は世界を救う活動をしてると信じていた。だが一方で了見が狭く、カルトの定めにわずかにでも外れる者は救うに値せぬものとした。
今、わたしは〈ヤマト〉に乗った。人類を救う使命を負って。しかし、どこかであの両親と同じ考え方をしている。〈ヤマト計画〉に反対し、地球より冥王星が大事と叫び、ガミラスを神の使いと呼んであがめ、降伏すれば彼らもまた武器を捨て青い地球を返してくれると夢見る者達。あるいは、すべてあきらめて死を待つだけの生(せい)を生(い)き、麻薬やギャンブルやテレビゲームに溺れきってしまった者達。地球にはそんな手合いが大勢いる。そんな人間達までも、救わなければいけないのか。救われるのは限られた人間だけでいいのじゃないか。
ふと、どこかでそう考えている自分に気づく。救われるのは正しい人間だけでいい。〈正しい〉とは、つまり、わたしと同じ人間。
マジメな人間ということだ。
そこで愕然とするのだった。わたしは一体、なんという恐ろしいことを考えているのか。知らないうちにあんなに呪った両親と同じ道を進もうとしている。気づいて方向修正しても、またいつの間にかのうちに、正しいつもりでまた元の方角へ――。
やめよう、と思った。今はこんなことを考えるときではない。石を採って〈ヤマト〉に運ぶ。この任務に集中せねば――とは言っても、いま自分がこの場にいてやることなんてカメラを手に記録を撮影するくらいだが。
石を切り出す作業を見守る。コスモナイトの鉱石がみるみる太鼓にされていく。子供の頃に一度見た餅つきの臼を思い出した。正月に近くの神社で町内の餅つき会があったのだ。親に内緒でそれを見に行ったのだった。
そのたった一回だけが、子供の頃のたのしかった思い出だ。しかし後で親にバレ、一月の冷たい水風呂に投げ込まれた。異教の祭はすべて悪魔の罠であると教えてきたのに、お前という子はなぜどうして。お前の体から悪魔を追い出すにはこうするしかないのよと。
だから、他にはひとつもたのしいことはなかった。どんな遊びも許されなかった。他の子供が幼稚園に通う時間に、ただ毎日、母の伝道に手を引かれた。小学校に入っても遠足など行かせてもらえず、放課後にはまっすぐ家に帰らなければならなかった。友達などいなかった。いつもひとりぼっちだった。
あの日、神社で、自分もいつか、まわりにいる人達のように笑って餅をつきたいと思った。臼に手を入れ餅をひっくり返す役でも、出来た餅を切って配る役でもいい。何かの役を果たしたいと思った。
作品名:敵中横断二九六千光年1 セントエルモの灯 作家名:島田信之