敵中横断二九六千光年1 セントエルモの灯
凍死目前
それは寒いとか冷たいとかいうのでなかった。全身に氷のロープを巻きつけられ、ギリギリときつく縛り上げられていくかのような感覚だった。痛い。ただ、ひたすら痛い。森は寒さが急速に自分を殺そうとしているのを感じていた。
ああ、あのときと同じだと思った。子供の頃、あの餅つき会の後で親に水風呂に投げ込まれ、顔を水中に押し込まれて息もできなかったときと。今度も同じだ。息ができない。そのあまりの冷たさに口が凍りつきそうになる。船外服はそれ自体が高い保温機能を持ってはいるのだが、ヒーターが壊れた影響はまず吸うべき酸素に現れていた。
船外服のヒーターは、着る人間の体だけでなく、タンク内の純酸素も呼吸に支障がないように暖める役を持っている。それが壊れてしまったために、ヘルメットの中の空気が温度をぐんぐん低めているのだ。あと数分で吸えば肺が凍るほどになってしまうに違いない。
バイザーのガラスが曇る。曇り止めなど役に立つはずがなかった。外気温は息を吐けばそれに含まれる二酸化炭素がドライアイスになってしまうほどの温度だ。
寒さを感じる時間もあとほんのわずかだろうと思った。ものの一分で体温が下がり、心臓が止まり意識を失う。その一分後に氷の固まりだ。だが、それでも、まあいいか――十年後に放射能で死ぬよりは。どうせ子供を産めない体で、それまでただ生きるだけの生を生き続けるよりは。
人類を救う。子供を救う。そんなこと、どうせあたしはどうでもよかったんだから。地球に帰りを待つ者なんかどうせいやしないんだから。〈青い地球〉なんて言うのはあたしには見覚えのない他所の惑星みたいなもの……。
だから、そんなもの構うものか。あたしが死んでも誰かが仕事を引き継ぐだろう。ここで死んでも悔いはない――そう思ってから、いや、どうかなと思い直した。急にあの古代進の顔が瞼(まぶた)に浮かんだのだ。
蔑(さげす)みの眼でこちらを見ている。はん、一体なんだよそれは、と。おれをさんざんバカにしといて自分はそれかい。情けない女だ――。
悪かったわね、と考えてから、思った。なんで最期にあいつのことなど思い出してしまうんだろう。あのがんもどきパイロットを忌み嫌っていたはずなのに。
でも、と思う。あいつに対して、イヤな女だったかな……あたしが死んでも、あいつだけは、ヤな女が死んだと思うだけなのか。それはなんとなくイヤな気がする。
妙なものだなと考えた。他の男にどう思われても構わないような気もするのに。
どうしてよりによってあんな――そう思う間にも、森が吸う空気はどんどん冷たくなりつつあった。
作品名:敵中横断二九六千光年1 セントエルモの灯 作家名:島田信之