天狗風
二
「志摩!」
自分を呼ぶ声に、は、と眼を開ける。
「坊……?」
「なに寝ぼけとるんや」
声の方を見て、廉造は思わず目を見張った。
「坊? 髪……」
「髪? 髪がどないしたんや」
「鶏冠キメたの、戻さはったんでっか?」
額からうなじまで、頭の真ん中だけ金髪に染めていた。それが黒に戻っている。はっ、と勝呂が笑う。
「いつの話しとるねや。もう随分前に、一緒に戻したやろ」
え? と驚いて跳ね起きる。
「あれ? ここ……」
見知らぬ部屋だ。そして見知らぬベッド。そこに座り込んでいる一糸纏わぬ自分。目の前の勝呂は下着一枚で、真っ白なタンクトップに袖を通していた。背を向けた腕の付け根に紅い痕が残っていた。
「ぼ、坊……」
「なんや」
「あの……」
「はよ支度せぇ。仕事遅れるで」
「仕事? って、そのカッコ」
勝呂は襦袢の腰で扱帯《しごきおび》を結ぼうとしていた。それだけで判る。京都出張所の職員が着ている、仏教系祓魔師の制服だ。
ちょっと待て、と廉造は軽くパニックに陥る。出張所の制服? って、卒業したんか? いつ?
そう言えば、勝呂の顔の輪郭が少し大人っぽいような気がする。髪の毛は黒と言うよりは、少し明るい、それでも大人しい黒に近い色に染められているが、ソフトモヒカンっぽい長さは変わらない。高校入学から生やし始めたあごひげの形もそのままだ。それでも、頤と首筋、襦袢から覗く肌が大人びて見える。
そう認識すると、何となく自分の身体を見回してみる。高校時代より、もう少し筋肉がついただろうか。手も骨ばって少し大きくなった気がする。
「まだ寝とるんか? それとも新手のわがまま言うとるんか」
一つ溜め息を吐いて、勝呂が近付いてくる。顔がぐいと間近に迫ったと思うと、柔らかく口付けられていた。からかうように舌が唇をなぞり、軽く吸い上げると、つい、と離れた。唇がそこだけ痺れているような気がする。ついでに、廉造自身が朝だからと言う理由だけではない状態を示した。そんな……、反則や。
「はよ起き」
勝呂の顔がほんの少し、赤くなっている。着替えに戻ろうとする手を思わず掴んで、引き寄せた。一緒にそのままベッドに倒れこむ。
「坊……」
堪らず首筋に噛み付く。
「アホ! 昨日散々……っ!」
「だって、あんまり可愛らしいから」
「この、エロ魔神! エエ加減にせぇや!」
押さえ込まれた身体を自由にしようと、勝呂が胸を押し返してくる。その手をものともせず、袷を押し広げて、タンクトップも捲り上げる。そして締まった腹に口付けた。ごつん、と音がして、頭頂部に激痛が走った。
「いたぁっ!」
「当たり前や! 朝っぱらから!」
「だって」
「だってやあれへん! 仕事は仕事できちんとせぇ!」
勝呂が怒鳴ったかと思うと、いきなり視線を外して口ごもった。
「夜に……、また来ればエエやろ……」
怒ったような顔をしてても、真っ赤だった。こんな彼と、どんな毎日を過ごして、どれだけ想いを重ねてきたのだろう。廉造の中にあるべきはずの二人の記憶が、ぽっかり抜けているのが、悔しい。それでも安心した。まだ彼の傍に、誰より愛しい人の傍にちゃんといるのだと。
「坊……。俺ら、まだ一緒におるんですね」
一瞬きょとんとした勝呂が、むっとした顔をする。
「当たり前やろ」
頬を抓られた。
「いたたた……」
痛いですよぅ、と甘えて勝呂の手に自分の手を添えて撫でる。だが、勝呂の力は一向に緩まない。それどころか、徐々に力が強くなっているような気がする。
「ちょ、坊。痛いですて。堪忍やて」
ギブギブ、と手をぱたぱたと叩く。勝呂は無表情に自分の頬を抓り続ける。今や、万力で捩じりあげられているようだ。その内皮膚が切れて、顔の皮がべろりとはがれてしまうのではないか。それくらい痛かった。滲んできた涙で視界がぼやける。勝呂の顔も、ぐにゃりと歪んで引き伸ばした蛙のような顔になる。
「痛った! ホンマ、アカンて! 坊、堪忍!」
叫ぶと、は、と目が醒めた。
目の前に、奇妙な物体があった。二、三度瞬きして、それが何となく生物の顔だと判る。黒々とした目。顔中に生えた黒い羽。そして大きく鋭く尖ったくちばし。思わず後ずさりして口をあんぐりと開ける。黒い六角形の兜巾《ときん》を額につけて、服装は山伏の来ているような法衣。背中には大きな翼が見える。彼にとっては意外に馴染みのある姿だった。思わず大声を上げた。
「かっ……!」
「烏天狗!?」
燐たちが素っ頓狂な声を上げた。
「カラステングってあれだろ? あの頭巾被っててさ、バッタバッタと悪い奴らを……」
「それ鞍馬天狗」
雪男が漫才のようなツッコミを入れた。
「鞍馬天狗は当たらずとも遠からず、言うとこですけどな」
子猫丸が訂正する。彼が自分を気にしているのが判った。子猫丸にはいつもそんな役回りばかりさせて、すまないと思う。だが、今はムリだった。勝呂は廉造が攫われたと判ってから、焦りと不安ばかりが湧き上がってくる。今すぐにでも廉造を助けに、飛び出して行きたい。それでも、闇雲にそんなことをしても無理なのは判っている。だが、有効な手段を提案することも出来ない。その状況をどうにも出来ないことに怒りが収まらなかった。
早う、討伐隊出さんと。
現実はそんな勝呂をからかうように、遅々として進まなかった。どうしようもない苛立ちを抑えきれずに、ウロウロしたり、足踏みをしたりするのが辞められなかった。
「鞍馬天狗は、義経に剣術を教えた烏天狗やと言われとります。一方で烏天狗は小天狗言うて、鼻の長い大天狗の眷属や言う説もあるようですけど、大天狗は近代になってから現れた言う話もありましてな……」
「子猫、益体もない話は止め。それより、早うアイツ助けな」
勝呂が不機嫌な声で、子猫丸の説明を遮った。
「おい、勝呂。お前らしくねーぞ、落ち着けよ」
普段は止められる方の燐が宥める。判っている。判っているが、暢気すぎるように聞こえて、苛立つ。
「わかっとる!」
思わず怒鳴り返してしまう。バカなことを。その嫌悪感で、更に苛立ちが募る。
「心配してんのはアンタだけじゃないんだから、ちょっとは落ち着きなさいよ!」
「やかましいわ! アイツは俺の兄弟も同然なんや! どんだけ心配しとるか、お前にわかるんか!」
出雲にも当たり散らしてしまう。最初は腹立つばかりだった彼女の物言いも、ただ素直でないだけだと最近では判ってきている。それでも、今の彼には彼女の心遣いも更に苛立たせるものでしかなかった。掴みかかりそうになるのを、子猫丸が必死に抑える。勝呂の勢いに怯えた風も見せず、睨み返してくる出雲をしえみが引き離した。
「坊! こんなところでモメたら、余計志摩さん助けに行けしまへんよ。抑えたってください!」
そうだ。
自分はまだ候補生でしかない。烏天狗がどれだけ居て、どれ程の力を持っているのかも判らないし、廉造がこの山のどこへ連れて行かれたのかも判らない。一人では何も出来ない。
その考えが、勝呂の身体から力を奪っていくような気がした。
自分は大事な人間一人守れない。
「坊?」
「……みんな、すまん」